【みんなそうだよ、私もあるよ】
発達障害当事者界隈で、「みんなそうだよ」「私もあるよ〜」「子どもなんてそんなもんだよ〜」と反射的に言われるの、ちょっと・・・という話が時々出る。
私も、なんどかつぶやいた経験がある。
まず親にカミングアウトしたときに、頭ごなしに否定されたりはしなかったけど、やっぱり上の3つは全部言われた。特に、孫のことに関してはやっぱり、「普通の子」にしたかったんだろうなあと思う。
言葉でそうは言わなかったけど、「あなたの気に病みすぎなんじゃないの、考え過ぎなんじゃないの、大丈夫だよこのくらい普通だよ」という慰め?メッセージの波動を、話している間浴び続けた。
これは当然、しんどいわけで。理解してもらえていない、簡単に言ってくれるな、と、反射的に悲しくなってしまう。
娘も、私も、困っている。娘の育児があまりに大変なことで気付くきっかけになったけれど、私自身もこれまであなたがたの保護のもとで育っていた間、実はいろいろと辛くて大変なこともあった。ずっと、そういう「性質」なんだと思っていた。だけど、どうやらこれは生まれつきの問題で、辛いこと大変なことが多いのも、理由があったんだ。だから、それを知った今はむしろ前よりも楽になっていて、これからより快適に生きて行くための方法を模索していて、それにできればあなたたちも力を貸してほしいんだ。
・・・そういうことを、まずは聞いて、受け止めてもらいたい、理解してほしい。
と、思った。
で、やっぱり親や近親者でなくても、たとえばお母さん同士で「うちの子こんなに大変で〜」みたいなノリのときに、ちょこっと娘のエピソードなんて話しても、「え〜◯◯ちゃん、すごいしっかりしてるしそんな風に見えない」みたいなことを言われてしまい、そのたびに「うっ・・・」ってなる。
私は、自分自身が自他境界線が曖昧で、他人にわかってもらえて当然、という意識がたぶん人一倍強いし、大人になるにしたがいそのあたりのところは随分ましになってきたけれど、それでも「他人が自分を理解してくれること」への期待度は相当高い方だと思う(言うまでもなく不毛)。
だから、最初に書いたような、考えなしに発せられる「え〜みんなそうだよ〜」の類いのコメントにダメージをくらうことは多い。
ただ、この頃は少し感じ方が変わってきた。
最初「辛い辛過ぎるこの育児、異常」
→「何かやっぱりちょっと普通じゃない、相談してみよう」
→「え?娘、もしかしてADHDというやつ?」
→「だけじゃなく、アスペルガーっていうやつも?」
→「というかそもそも私、この人にとても似ているところが。わ、私も?」
→「がーーん。これは性格の問題じゃなかった!!」
これが起こったのがここ1年以内。
最初、わかったときのぱーっと霞が晴れる感じ、すごかった。
人生がひっくり返った気がした。それから、私は、娘は、自分たちを責め過ぎてきたんだ、これからは訳もわからず自己嫌悪しなくていい(すべきじゃない)んだ、と思うようになり、ショックもありつつ受容のプロセスを進んできた。
その過程で、たぶんこれまでずっと下げ続けてきた自己肯定感を取り戻し、補強する必要があって、「私たちはこうなっているんだ、だから理解してほしい」という欲求がとても強くなってきたのだと思う。
だけど、ここには危険もあるな、と思う。
私自身、前にもこの記事の中で書いたけれど↓
義理の弟夫婦の子どもが自閉症だと聞いたときは、「そんな、そこまで心配するように見えないけど」と思ったものである。それこそ反射的に。
こんなに多くの人が、ほぼお決まりのようにこういう反応をするということは、嘆くべきことでも責めるべきことでもなくて、ただ、「それが、多くの人の普通の反応」だというシンプルな事実なんだと思う。
前よりは理解を示してくれるようになった人も、初めは大体そこからスタートする。相手に当たり前のように深い理解を求めるのは、相手の愛情を、エネルギーを、親切心を、もらって当然のものと見なしているんじゃないか。
「他者をわかろう」というのは、とても自発的な心の働きで、それを無理強いすることはできない。何を知りたいと思うか、誰をもっとわかりたいと思うか、それは各人の自由で、「◯◯に関心がないなんて!」と糾弾するのでは、どっかの熱心なナントカ信者とかキラキラ正義絶対主義者とかと同じになってしまうかもしれない。
だから、身近な人にもっと自分のことをわかって欲しければ、「わかってよ!」と要求するのではなくて、「こういうとき、私はこうなっているのです」と、相手の理解の助けになるよう、淡々と伝え続けていく、ということに努めればいいんじゃないだろうか。相手にとって、「わけのわからない」システムになっている自分の取扱説明を、伝える努力をする。その働きかけがあって初めて、相手もこちらの波打ち際へ、徐々に歩み寄ってきてくれるのではないかと思う。
自他境界線が曖昧で、気を抜いているとすぐにラインを踏み越えてしまい、家族に要求をぶつけてしまう自分への、自戒の意味で書きました。
【Aquarian】
水瓶座なのです。
あー星座占い。そういうの無理、って人は今回は飛ばしてください(笑)
あと今日は気分で「です、ます」調にします!
娘が生まれて一年後くらいかなあ?育児があまりの地獄で、何かしてないと死ぬ、と思って手を出したものの一つが西洋占星術。結局一年間スクールに通ってまで習いました。
まあここでは触れませんが、この世界めっちゃくちゃ面白いです。占星術はスピでもなんでもなく、何千年もかけて仮説とデータと実際の検証を繰り返し編んで集大成となったひとつの壮大な世界観なので、この体系を習得してそれで世界や自分を読み解く、というのは、とにかくものすごい面白いです。
発達障害診断と同じで、自分も、理解不能と思っていた他者も、理解して楽になる強力なツールともなります。
で、私は占星術で出生図というのを読むとけっこう特徴的な要素がいろいろあって、まずはとにかく水瓶座が強いです。「水瓶座が強い?それどゆこと?」というのはとりあえずスルーしてください。要は水瓶座の持っている性質というのがあって、私の持っている天体の地図みたいなものを見ると、その性質がやたら強烈だということです。
水瓶座のキーワードは、自由、平等、博愛、理想主義、ニュートラル、中性的、虚無的、あたりです。確かに、自分でもざっくりこういう感じのニンゲンだなあ、と思います。
今回記事を書こうと思ったきっかけは、昨日あった一場面。家族で外出から帰る電車の中で、迷い込んでしまった蛾だか蝶だかがふらふらと床に近いところを飛んでいました。座席に座った人たちの足の間を通るので、皆一様に嫌そうな顔で払いのけていました。このまま電車にいたら間違いなくすぐに死んでしまうので、私は近くに飛んできたときに手でつぶさないように包んで、次の駅でホームへ降ろしました。ホームだって誰かに踏まれてしまうかもしれないけど、少なくとも電車に閉じ込められているよりは、生き延びる可能性が少しだけ増えます。
私は昔から、死にかけたり弱ったりしている小さな生き物を見かけると、手を出さずにはいられなくなります。と、いう話をすると、「優しい~」と言われることがあるけれど、これは、優しいとかいうことじゃないのです。そもそも「優しい」って言葉自体に私は非常に引っ掛かりがあって、簡単には使わないのですが。
この感覚は、おそらく仏教で説くところの「生きとし生けるものはすべて仏性があり、『私』『ほかの者』などの区別はなく、皆つながっているのだ」ということだと思うのです。「ただ、自動的にそう感じる」としか言えません。
小さい生き物でも、ヒトでも、命の重さ(このワードも微妙ですが)は同じです。気持ち悪いからといって虫をつぶして命を奪う権利があるとは自分は思えない。同様に、同じヒトでも権力のある・なしや、身分、属性、能力、といったことで生きてる価値に差があると考えるのはわからんなあ、と思います。
私は人のカタチをしたお人形は昔も今もダメなのですが、動物のぬいぐるみは好きでした。小さいころ、大量にあるぬいぐるみと毎晩一緒に寝るのですが、同じ子とばかり寝ると不公平になるので、表を作って平等になるように順番に寝ていました。
「公平」という基準が、私の中では優先順位が上にくるようです。
以前、こちらの記事のなかでも少し触れたのですが↓
私はそもそもどんな属性に対しても「帰属意識」が薄くて、自己のイメージがはっきり輪郭を持たないのです。基本、虚無といってもいいです。世界の輪郭も自分の輪郭もぼんやりとしていて、個人という囲まれた自我を意識するには常に周りのものとの相対的な位置をはかって、そこから浮かび上がった場所や形や性質のイメージで、「自分」を作って保っている感じです。
これも以前書いたのですが、私は何かにとてもはまりやすいです。
その瞬間の熱量はすごいんですが、これはなにか衝動の対象を求めているということで、いわゆる「報酬系」に関わる欲求だと思います。
ただ、自分の内から自然にわき起こる欲望はあまりありません。獅子座で、「この世界は俺の舞台。俺が主役なので世界中が敵になっても俺が正しい」みたいに考えられる夫とは正反対です。
(ちなみに、この次から次へ関心対象が湧いてホッピングするのは、占星術的にいうと、水瓶座ではなく私の持っている双子座の要素から来ていると思われます)
嫉妬もよくわからないし、女の子のグループとか友達を独占したいとかもよくわからない。
つまり、おおざっぱに言えば、あまり個別の対象に固執しないんだと思います。固執しないということは、すわなち絡みついたりしないのでめんどくさくはないけど、特別待遇もケアもしないので大概は「クール」「冷たい」という印象を与えることになるようです。
最近、久々に相当はまった『アルドノア・ゼロ』というアニメがあります。
この中に出てくる主人公の一人に、やたら全方向に異能者なスーパーボーイなんだけど、感情の起伏を表さず淡々としていて、身もフタもない物言いをするいなほくんという男子高校生がいます。このキャラクターは2ちゃんねるとか方々で「こいつアスペだろ」と書かれてました。
私は、このいなほくんに非常にシンパシーを覚え、自分と重ねあわせて観ていました。彼の目線が、よくわかるからです。でも、一般的には彼は「アスペ」(世の中でこの言葉が揶揄する形容詞として使われてるところの)で、何考えてるかわからなくて、KYで、感情がない、という印象のようです。
彼の設定を調べてみたら、2月7日生まれの水瓶座でした^^
私は占星術を習ったときに、自分のこの淡々飄々とした、もしくは「ツメタイ」感じは水瓶座の性質が強いからか!と膝を打つ思いでしたが、この間アスペルガーと診断されたときにも、いろいろと「あー私のこの感じは、だからかあ~」と思ったのでした。
で、「この感じ」はいろいろ広いわけですが、水瓶座的である、ということと、アスペルガーである、ということの中身が、かなり重なる気がします。
いなほくんは人の社会の基本をなしているともいえる、「世間的な、絡まったもろもろ」に動じません。最終的に遠くに見える理想の前には、手前にある人間的な営みに向ける視線はとても冷めています。それは普通、「冷たい」「感情がない」と言われてしまうのだと思うのですが、これってアスペルガーの人が「感情がない」「人の心がわからない」と言われる感じと、とてもよく似ているなあと思うのです。
感情は、もちろんあって、そのシステムと表し方が違うだけ。
ちょっと、自己弁護、というか自分の「変わってる」あり方を、肯定したくなったのかもしれません。
占星術では、生まれた瞬間にそこにあった天体の配置を「出生図」と呼んで、それをもとに性質や、宿命的なものまで読むのですが、いろんな人のデータを実際に見ていくと、びっくりするくらい呼応関係があります。雑誌に出てくる「何座の人の今日の運勢は…」というのは、雑誌にコンテンツとして載せられるだけの量の情報(=ゼロに等しいくらい極小)を商品化したものに過ぎないです。
私は運命論者でもないし宿命も天命も世界観としては採用していませんが、宇宙の法則というものは当たり前にただそこにあって、自分はその中の一部である、と考えると安らぎます。
宇宙や地球の歴史のほんの見えない一瞬の瞬きにも満たないニンゲン社会のルールは、きっと試行錯誤が始まったばかりの、後から見たらきっとぐちゃぐちゃの拙いシロモノです。その愚かさと愛おしさは、ヒトのヒトたる所以そのものなのでしょうが、同時に水瓶族でアスペルガーの私は永劫の時間によこたわる宇宙の法則に、親しみを抱くのです。
【理解力について考えた】
私は、流れていくストーリーを理解するのが不得意である。
【自閉症スペクトラムって?発達障害って?何かちょっと、気になる方へ】#世界自閉症啓発デー
明日、4月2日は国連の定めた世界自閉症啓発デーなのだそうです。
自閉症をはじめとする発達障害について理解してもらおう、という
取り組みです。
その世界自閉症啓発デーに、啓発記事をコラボしよう!
という呼びかけを、
id:nanaioさんがしてくださいました。
自閉症について、何か知っていることはありますか?
通常、想像するのは「自分の殻に閉じこもっている人?」という感じでしょうか。
この頃、発達障害全般に関する啓発書もたくさん出ていますし、一般の関心も高まっています。最近では「自閉症スペクトラム」という言い方がされますが、これは重い自閉症からアスペルガー症候群まで、広汎性発達障害を連続的にとらえたものの総称です。
つまり、自閉症と一口に言っても、いろんなタイプの、いろんな程度のものがあり、しかもそれは「障害」と線引きされるはっきりした境界は持たず、いわゆる「ふつう」の人たちとも連なる連続体だということです。
私は、ブログタイトルにもありますが、ごく最近、娘の発達障害が発覚したことをきっかけに、自分自身の発達の問題についても気づいたばかりです。まだまだ知識も浅く、試行錯誤しながら家族みんながより楽に生きられる方法を模索している途上です。
ですので、「啓発」などという大それたことを言うのはおこがましいのですが、私自身がここ最近たどってきた道のりを少しご紹介することで、もし同じようにこれまで説明の付かなかった生きづらさや、子育てのあまりの過酷さに悩んできた人が、何か気づいて少しでも光を見いだすきっかけになってくれれば、と思います。
実際のところ、自分や身内が当事者でない場合、人間というものは他人の事情になかなか関心を持てません。経験したことのない痛みや苦しみを想像してみるには、相当の心の余裕が要ります。そしてそんなきっかけもなかなか無いものです。
でも裏を返せば、きっかけさえあれば、その糸口はいろんなところに転がっているのです。
私自身ごく最近まで、「自閉症」や「発達障害」に関してほとんど何の知識も関心もなく生きてきた一人です。前に夫の弟夫婦のところに生まれた子が軽度の知的障害を伴った自閉症だとわかったときも、大変そうだな、とぼんやりと思っただけで、それ以上深く共感することはできませんでした。
それは、本人や親が実際にどういう風なことで困っていたり辛い思いをしているのか、ということが、わからなかったからです。
それほど見て分かるような問題行動もなく、言葉も遅れてはいるけれどだんだん増えてきている甥っ子を見て、「言葉の発達のスピードなんて人それぞれだよね。障害なんてまだ決めなくてもいいんじゃない?だんだん話すようにもなってきているし」と思っていました。それこそが、今自分や娘に向かって言われれば一番、うーんとうなってしまうコメントなのですが、その頃はなぜか根拠なく「大丈夫じゃない?」「心配し過ぎじゃない?」と思っていたのです。
ごく最近までそんな感じだった私としては、「無理解」を責める気にはなれません。「自分のわからないものを理解する」というのは相当なエネルギーと動機が要るものです。夫婦関係のことを考えただけでも、そう思いませんか?
わからないものをわかろうとするのは辛い。自分のこれまでの感覚や認識を塗り替えるのは、結構なことなんです。
だから、私は今のところ、世界の全ての人に向けて「理解してほしい」とは言えません。まずは「実は当事者だった」「実は子どもが当事者で、ここまで育児が辛いのは、そのせいだった」「夫婦関係が辛いのは、パートナーにその傾向があったからだった」と気づいた人が、ご自身やご家族の理解を深めて楽になってもらえたら。そしてそこから、同じ地平上に連なる、他の障害や目に見えない生きづらさを抱えた人たちの存在に少しだけ想像力を使ってもらえたら。と、思うのです。
娘と、私(じつはその後、下の子どもと夫も同じような傾向があるなー、ということがわかってきましたが)の、発達障害に気づいた経緯については、ブログ開設時に最初に記事にしましたので、こちらをのぞいていただけたら、嬉しいです。
私はそもそもこのブログを、娘と自分自身の発達障害の探求ノートとして、書き始めました。なぜこんなにも子育てが苦しかったのか。なぜ私は、社会的には「普通に」生きているように見えて、なかなか説明しがたい「しんどさ」をたくさん抱えてきたのか。
ともかく書いて、整理して、眺めて、棚卸しをする必要がありました。
ブログと一緒に、日々の気づきを言葉にするためにTwitterでもちょこちょこつぶやいています。
そうして、「外の人の目に触れる」という気持ちで書いていたら、だんだんと、同じようなことで苦しんだり困ったりしている人と、繋がれるようになってきたのです。
そうしたら、これまで書籍やネットの情報を受け取るだけだったのが、今まさに同じ問題を共有している人たちとオンタイムで情報交換したり、思いを共有できるようになり、とても楽になりました。
発達障害、あるいは自閉症スペクトラムについて知れば知るほど、自分と家族の理解が深まっていきます。こうして少しずつ自分たちのことを、わかっていこう。そして、もしまだ何もわからず穴の底にいる人がいたら、その人たちにも、このささやかなきっかけが届けばいいな。そう、願っています。
そうすれば、きっとその家族、友人といったごく近しい人を通じて、少しずつでも周りに理解の芽が、広がっていってくれることと思います。
【父との関係について考えたこと】
子ども二人を連れて実家に数日帰省している。
つい先月、自分と娘の発達障害のことについて両親には話をしたのだけど(【診断と、両親への報告】 - なんだなんだ、そうだったのか)、カミングアウト自体に特に大きな問題はなく。
「そうなんだ」という感じで両親とも受け止めていて、まあ若干「でも○○ちゃんはいい子だよ、問題なく見えるけど。子どもはみんなそうだよ」「それも個性ってことじゃないの」的なコメントもあり、少し引っかかりはあったものの、それはまあ最初の反応としては普通かな、と。
で、とりあえず私たち親子はそういうことですよー(っていうかつまりそれは私の親であるあなた方も多分に同類、ってことなんだが)、ということは共通理解となったということで、普通にとどこおりなくやっていけているので、そこはかなり恵まれたというか理想的な状況なんだろう。
なんだけど、発達障害持ちの親子関係はやはりそれなりの複雑さを含んでいるものであると思う。それは別に発達障害に限ったことではなく、まあ親子関係というものはどんな人でも十人十色の難しさがあるわけだけど。
私はアスペルガー特性からか、家族関係において、感情的ないろいろな印象、特に違和感とか抵抗感とか、をあまり突き詰めずに育ってきたように思う。情緒面の発達が人より遅れてやってきたというのもあるのだろう。「あれ?なんか仲良しで理想の家族、と思っていたけど実はそれなりにいろいろあるなあ??」って疑問を持って掘り出したのが何せ30代になってから。で、自分の育ち方や家庭環境における葛藤や未消化の部分がかなり明確に見えて来るようになったのはそれこそ娘を産んで、必死の修羅場を生き延びて、ちょっといろいろ考える余裕が出てきたここ数年のことである。
今日、子どもらを連れて実家入りしたんだけど、父のうちの娘に対する態度を見ていて、「あれ?」と思った。
私と父は仲が悪いわけではないが、価値観とか好みとかテンポとか、つまり波長が交わらない。だから昔から「何となくイラッとする」みたいなことはしばしばあるんだけど、今日はことさらそれをはっきり感じた。
娘はこだわりが強く切り替えがきかないので、言われたことをすぐできないしやめろと言われたことをやめられない。あと、何事においてもものすごく迷って決められない。それを、父が注意するのだけど、
「早く早く」
「○○をやめなさい」
「○○しなさい」
「決めた?はい、もう決まった決まった。こっちにしたら」
と、とにかくせかすのと、物言いが一方的で、父が思う「今すぐこれをするべきだ」という行動に誘導することがすべてで、待ったがきかない。
決してきつい口調ではないんだけど、だからこそ余計に反射的で機械的で、一度も自分自身の心というかハラというか、を通過させることなく「親からもそう教わったし、この場で正しい行動はこうだから」という彼の正しさを押し付けていることがわかる。
父は風貌もたたずまいも穏やかで、決して声を荒げたり感情的に高ぶったりはしないし、子どもに手をあげたこともない。だからずっと「私は親に怒られたことがないし、意思を尊重されて自由にさせてもらった」と思ってきた。私は先読みして親の求める”よい行動”ができてしまう子だったので、父の私と娘に向ける態度は違うんだけれど、今日の娘へのコントロールっぷりと一方的さを見ていて、この人の子どもとか妻とか孫とか、つまり「自分がケアして庇護する対象」と考えている人間に対する扱いはこうなのだ、とくっきり実感してしまった。
私は異常に自己肯定感が低く、親からよく怒られたわけでもないしむしろ褒められて育ってきたのに何でだろう? とずっと疑問だった。今でもその疑問が解けたわけではないけれど、なんか今日見えてきたことが鍵になっている気がする。
多分、自分が本当に褒めてほしいことを褒めてもらったんではないんだろうな。感情の発達が遅く、「自分の気持ち」が最初にあるのだ、それを感じた結果に行動があるのだ、という、定型発達であれば当たり前の行動原理がおそらく幼少時の私には無いかもしくは薄くて、親が用意した「こうあるべき」の規範を、ロボットがプログラムをインストールするみたいに吸収してきたんじゃないかなぁ、というような想像をしてみているんだけど、どうだろう。
そして、穏やかでマメで家族サービスも厚く外でも評判のいい、出来杉くん的な父の教育は、見え方としては理想的で打ち出し方もソフトであるがゆえに、その縛りはかえってかなり厄介なのだと思う。
うーん。
明日は子どもたちも連れて日帰り温泉だし、せっかくの楽しいはずのイベントなので、分析グセはここまでにしておこう。
ただ何となく、やるせないなあ。
タイムマシンで小さい頃の私のところへ行って、頭を撫でてやりたいわ。
あとは、おそらく同じことを私が娘にやっているのだろうから、この連鎖をできるだけ意識することだ。意識化できれば、同化はしない。そうしたら、タイムマシンで慰めに行くことはできなくても、ちょっとは小さい私の供養にもなるだろう。
【イタイ?カワイイ?】
娘は、ADHD特有なのか、彼女のキャラなのか、
身近に他のADHDのお子さんを知らないので何とも言えないけど、
間が悪い。挙動不審。動きが珍妙でおかしい。言動もときどき珍妙。どんくさい。
あと、人との間合いのつめ方が唐突で、かつウザいので、「巻かれる」とか、「なんとなく引かれる」ことが多くて、そういう現場を見てしまうと何とも不憫でいたたまれなくなることがよくある。
こういう娘の性質に振り回されたり疲弊させられたりはしてるんだけど、ただ、親ばかかもしれないけど、これが・・・愛しくもある。
動きがスムーズで、そつなく自然にふるまえる子より、なんかキョドってる娘のぎこちなさと一生懸命さが、何とも言えずカワイくも見えるのである。
そもそも私も同類だし、引っ掛かりもざらつきもないものよりはヘンテコなものの方が面白いと感じる。
変顔の微妙さとか、よくわからないギャグ(まったく面白くない)とか、
絶妙なタイミングとフォームでのコケ方とか。
「この人、キテるな~!!」
とよく思うのだけど、それは私の中ではむしろほめ言葉である。
だいぶ前から、「痛々しいけど愛しい、から、『痛カワイイ』だよね!」
と、こういうキャラを形容する言葉を発案して使っていたのだけど、
ふと検索してみたら、なんと普通にあるんだね!「痛かわいい」という言葉。
軽くショック!
でもなんか、私が娘を形容するのに使っているのとはちょっと意味が違うようだ。
最近、発達障害や自閉を持つ人の天才性とか、特定の秀でた分野を伸ばす、みたいな話を結構よく見かけるけれど、うん、まあそれは、「社会で役立てることができる」「それで身を立てることができる」みたいなことだよね。
けど、そういう「スゴイ能力」とかじゃなくてもこのADHD?ざっくり発達/自閉症スペクトラム全般?の、独特の愛らしさとか面白さみたいのってあって、それは「強み」とも言える、「持ってるもの」でもあるような気がするんだけど…
リサーチしてるわけでもないのでまだうまく表現できない。
【子どもへの告知と支援について悩む】
娘には、早期に自分の得意なこと・苦手なことを自覚して、処世術を身につけて欲しい。
しなくて良い苦労はしなくて良い。
でも告知は、一度してしまったら無かったことにはできないので、慎重になっている。
聞いたことをすぐ忘れてしまうことがよくあるね、いっぺんにたくさんのことを覚えられないね、支度をするのに人より時間がかかるね、
と言うようなことは本人に伝えてあるし、自覚もある。
ただ、お医者さんで「診断」がつくようなものなのだ、ということ、また学校で週一回別の学校に行っているお友達と同じように、自分もクラスの子たちとは別枠で支援が必要な人なんだ、とは全く思っていない。
そして今のところ、メインの困り事は母娘関係が難しいことであり、あとは親の指示が入らないこと、公共の場でもこだわりによるパニックが出ること、などで、学校生活においては、まだそれほど問題があると言う話は来ていない。
この段階で、本人にどの程度までの自覚を促して、学校の先生なども巻き込んだ支援をしていくべきかどうか、非常に悩ましい。
私自身は、自分が発達障害かもしれないということに気づくまではそれほど意識していなかったが、自分の過去を掘り起こしてみると、小学校くらいまではかなり学校生活にも支障をきたしていた記憶がある。支障、というか「浮いていた」といった方がいいかな。それで先生に怒られたり、親に電話が来たりしたことはないし、特別辛かったということでもない。
ただ、40にもなって自分の得手不得手や、体質的なハンディ、社会生活上の生きづらさがひとつの絵としてやっと認識され、少しは整理もつき、そうなってみると「ああ、そういうことだったのか。すっきりはしたけれど、もしもっと早く知っていれば、こんなに生真面目に周りに合わせて生きなくても、もう少し自由に自分の『好き』や『得意』を追求する道もあったのではないか」という思いもある。
娘にはその、私が回り道をして選び得なかった道をなるべく早く見つけて、彼女らしく少しでも楽しく生きられる道を模索してほしい。「楽しく生きてほしい」というのは親の勝手な希望だとしても、少なくとも自活して生きていける術を身に着けてほしい。
まだまだ発達障害についての勉強自体を始めたばかりだし、支援体制もどんなものがあるのか、どうやったら利用できるのか、今後どんな観点で学校選びを進めたらいいのか、右も左もわからない状態。
それどころか、発達障害持ちという事実を受けての気持ちの整理や、家族間で起こる様々な難しい局面にどうやって対応していくか、など、これから取り組まなければいけないことが目の前に積み重なっていて、めまいさえしそうである。
とりあえずこの2カ月間はペアレントトレーニングをやっていて、これだけでもかなりのインパクト!
学校との連携については、いずれ具体的に考えなければいけないんだろうなぁ。
ただ、発言や子供たちへの対応を1年間見てきた限りでは、来年もそのまま持ち上がりになる娘の担任は、発達障害についてそれほど深い理解がある感じではなく、子供の叱り方や問題があったときの対処法などについても「?」ということがちょくちょくあるので、下手にフライングしてこの先生に話をするのは得策ではないかなと思っている。
かといって支援を求めるのに先生の資質頼みというのもなんか違う気がするし…
うーん。結論は出ない。
担任の資質の問題、
娘がどう受け止めるか、の問題。
ひとまず抱えつつ、もう少しこのまま通常学級で、社会の縮図であるクラスの中で、様子を見る段階かなあ。