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なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【娘の友達が遊びに来ています】

娘は小2なのですが、学童に行っているので小学校に上がってからこれまで友達と待ち合わせて遊ぶことはありませんでした(幼稚園のとき、お母さんも込みで行き来することはありましたが)。

それが最近は、周りの友達が放課後に自分たちで約束をして遊ぶようになり、「私も誰々と遊びたい」というようになってきました。

 

まだ彼女は自分で友達と約束を取り付けて遊ぶ、ということはできません。私もクラスで知っているお母さん自体が少ないし、遊びたいという子の名前を聞いても、誰かもわからないしましてや家も知らない。ついこの間まで、一体どうしていいのかわからない、という状況でした。

 

でもこの頃、少しずつですが、近所の同学年の子のお母さんと話す機会があったりして、家に遊びに行かせてもらうことが出てきました。

 

今日は、娘が逆にその友達を自宅に呼びたいというので、はじめて同級生二人をうちに呼んで遊ばせています。

 

私は正直なところ、子どもの扱いがよくわからない(というか基本的に苦手)上に、子どもの母どうしのお付き合いも塩梅がよくわからないので緊張するし、さらに自分のペースや空間を乱されることが非常に苦手なので、「子どもが遊びにくる」というのは結構なストレスです。

それでも、こういうのはお互い様だし、子どもがいる生活というのはこういうものだと思うので、がんばって誘ってみました。

 

もうかれこれ3時間ほど、2年生女子3人とうちの4歳の息子とで遊んでいますが、まず驚いたのは娘が、思いの外友達とスムーズに遊べているな、ということです。ソーシャルスキルは決して高くないので、きっともめたり、2対1で仲間はずれになったりするんじゃないかな、と思ってました。

 

それが、意外とうまくやりとりしているのです。仲良しこよしで平和、というわけではなく、ぶつかるシーンはちょこちょこあるのですが、嫌なことをされたら「それはやめて」とか「勝手に出さないで」とか、ちゃんと言うのです。

私、小さい頃は多分言えてなかったと思うなあ。で、そのあとは気まずくなるでもなく普通に遊んでいる。

あと「これは私あんまり面白くない。こっちをやろう」とかお互いに言い合っていて、娘も同じようにやっている。

 

幼稚園のときに友達を呼んで遊んでいたときは、もっとぎくしゃくしたり、譲り合えずにギャン泣きしたりしていたことを思うと、ずいぶん成長したみたいです。これは、友達と遊んでるところを横で見る、という、この状況ではじめてわかったことでした。

 

1年生のときから、クラスでちょっと問題のあるような子にちょっと暴力を振るわれたり意地悪をされたりしているのですが、それも、最近になってやっと「その子が後ろを振り向いたときに怖い顔をしているときは、あまり話しかけないほうがいいとわかった」などと言っていて、少しずつですがソーシャルスキルは自分なりに獲得して行っているようです。

 

ところで小学生二人を家に呼んでもう一つ再認識したのは、先に書いた私のこの「自分のペースや空間を乱されるのが苦手」という部分。

うーんやはりこれは私には厳しい!!娘は発達障害持ちのややこしい子なのでもちろん日々振り回されて大変なわけですが、そうでなくてもやっぱり子どもは普通にややこしかった(- -)

 

私の想定外のタイミングで想定外のことを山のように言ってく寝室に入る、台所に入ってお菓子を持っていく、部屋に置いてあるものをいろいろ触る、遊びに使う道具をあれこれ出してと要求する…。

 

これはあれです、仕事でタスクリストにないことや、スケジュール(私の)に組み込まれていないことへの臨機応変対応をせまられるのと、同種のストレスです。子どもの要求はまたかなり想定外のところから飛んでくるので、よりハードです。

 

いいよいいよ、子どもは好きなようにやればいいよ、と、どっしり構えてほったらかしていられるお母ちゃんにホント憧れますが、生まれ変わって脳みそ変わらないとそれは無理そうです。

 

【終わり時間が来てもやめられない娘と、それを責める私】

先日、はっとするようなことがありました。

 

娘は月に2回、私の友人がやっている小さなクラフトショップの子ども工芸教室に行かせています。クラスには年長~小5の子たち6、7人がいて、そのときどきのテーマで工作とか、絵とか、手芸とかを教えてもらっています。娘はものをつくるのが好きなので、毎回すごく楽しみにしています。

 

娘の特性として、「何かに集中していると、終わり時間が来てもやめられない」「何か興味を強く惹かれるものがあると、欲求を抑えられない」ということがあります。

 

つまり、学校の授業でも友達と遊ぶことでも、読書でも漫画でも、すべてにおいて「終わりにさせる、帰らせる、次のことに取りかからせる」のにとてもてこずるのです。

この工芸教室でも、やはり毎回言い聞かせていても帰り際に「あとこれだけ」とかぐずぐずと引き伸ばして、結局すごく帰るのが遅くなってしまいます。私はこの彼女の特性にこれまでずっと苦労してきたので、この点に関して沸点がとても低くなっていて、少しでも言うことを聞かなかったり、引き伸ばすそぶりが見えると、瞬間湯沸かし器になって帰宅後はヒステリーです。正直、ここに通わせるのも気持ち的にしんどくなっていました。

 

先週は、みんなは次の作品に移っているのに娘だけその前の回でやることが終わらず、さらに次の週まで持ち越しになると次のテーマにめり込むけど、どうしようか、という話になりました。これまでも帰り際が延び延びになることが多く、みんなの足並みを乱して迷惑をかけているのでは、と私が気に病んでしまい、改めて翌日お店へ行って、先生である友人と話をしてきました。

 

私は、もちろん娘が創作を楽しめるように教室へ行かせたわけなのですが、帰れなかったり指示に従えずに我を通したりすることが度を越すようなら、ほかの生徒さんにもお店にも迷惑だし、娘本人にとっても学校や家庭で「時間を守る」ことの練習をさせたいのにここでだけ容認されてしまうのは良くないのではないか、と思っていました。

そこで、はじめは友人に「時間に終わらなければ持ち帰ってあとは家でさせる。でも、基本は時間内で終わらせるべきで、終わらなくて家でも材料が用意できないものはそこまでだよ、と教えようと思う。」と言うつもりでいました。

 

でも、まずは娘をいつも見てくれている友人の意見を聞いてみようと思い、お店を訪ねたわけなのですが、結論から言って、友人は私の杞憂や硬い思い込みを吹っ飛ばしてくれました。

 

教室での娘の行動を、友人に聞いたとおり描写してみると。

 

前回子どもたちが作っていたのは「木製のペン立て」で、糸鋸で好きな絵を切り抜いて彩色して組み立てるのですが、娘は途中で作業を放り出して、みんなが糸鋸を使っているところを回っては飛び散るおがくずを延々集めていました。それでしばらく見ていたら、その集めたおがくずとボンドを絵の具に混ぜて、そのおがくずの混じった絵の具でマイペースに色を塗り出しました。というのは、だいぶ前に、「すさ」というものを塗料に混ぜてしっくい風のテクスチャーを作るやり方があるよ、という話を友人が子どもたちにしたことがあるそうで、娘はそれを思い出して、おがくずを使ってやってみようと思ったらしいのです。それで、みんなが彩色を終わって組み立てに入っていても、1人納得のいくまでその「自家製すさ入り絵の具」を塗っていました。

 

そして、そのペン立ては家の形をしているのですが、そこから急にドールハウスのイメージが浮かんで頭を占拠したらしく、お店のレジ裏にあったビーズやパーツや木の実や小石が入った缶を取り出して中身をやおら選り分けはじめ、延々それに没頭していました。その間、友人は横目で見ながら、放っておきました。その選り分け作業は別に何につながるわけでもなく、ただ娘の脳内で、ペン立ての家に登場人物なりアイテムなりを配置して遊んでいたようです。

 

というわけで、終わりの時間にはもちろん、全然完成には程遠い状態だったのです。それで、友人がただそれを事実として報告してくれたのを、私が「1人終わらなくてペースを乱して迷惑をかけている」と早合点してしまったのでした。

 

友人が話してくれたのは、こういうことでした。

お店では何も迷惑ではないし、娘が大変だと思ったことも一度もない。でも私が、家や学校で練習していることと揃えて、あくまで「時間内に終わらせる」ことを優先にしたいのなら、他の子に1回声かけするところを5回声かけすればいいだけで、そうしたら彼女はできるよ、それが希望ならそうするよ、と。

ただ、教室の教師としては、子どもが寄り道したり飽きたり抵抗したりしながら納得の行くまでやることを後押ししたい、それは学校の図工の時間でできないことだから、と。

 

本当に、目を覚まさせてもらいました。

 

私がなんでここの教室に娘を行かせたいと思ったのか、その最初の思いを全部忘れていました。さんざん学校で「授業の始まりに戻ってこれない、終わり時間になってもやっていることをやめられない」と注意されて、家でも「終わりと言ったら終わり!」と詰められている娘。私は、これから学校でも社会でも時間管理ができなければやっていけない、とかなり過剰に心配をしています。自分自身もともと時間に関しては、ちょっと強迫的なところがあります。

 

でも、私のこの強迫観念も、学校の要求も、たまたま現代日本のこの社会だから過剰になっているものだと思うのです。確かにここで生きていくのだからそのルールに合わせないとしんどい、ということはありますが、だからといって、時間管理ができないのはルールを守れない「できない子」、という教育になってしまって良いのか。

 

時間だけでなく、「効率」についてもこれは言えます。2時間の中で、作るものを決めたら時間配分をして終わり時間にはちゃんと完成できるように、先生の言うとおり工程を進めて無駄なことはしない。これが結局、私が要求していたことです。ものづくりをするために行っている場所なのに!

 

友人は言ってくれました。

「この子はねえ、すごいんだよ、何がって妄想力が。作品の出来がいいとか、ちょっと芸術的にすごいもの持ってる、とか、そういうのはあるかないか知らないし、別にどうでもいい。でも、糸鋸やってね、っていう時間におがくずをひたすら集めてるとか、ドールハウスの住人に良さそう!ってガラクタをひたすら選り分けてるとか、もうね、それが一番大事なんだよ。」と。

 

私はつい、効率とか意義とかを優先で考えてしまいます。意味のないことに労力を割きたくない(なけなしの体力から無駄なことに割くだけのエネルギーがない)、というのが私の性質です。だから、たとえば「発達に凸凹があるから、みんなと同じに底上げするんじゃなく、好きなことや向いてることを伸ばしてやりたい」と考えたときに、すぐに「じゃあ、創作系でもなんでも、やるならちゃんとやった方がいい」みたいになっちゃうのです。

 

先日の教室での娘の様子をもし見ていたら、私は間違いなく「えっと糸鋸やる時間だよ。おがくず集めてないで早くしないと終わらないよ」と、言っちゃってたと思うのです。きっと学校でもそう言われるでしょう。

 

でも友人の教室では、それは言われない。見てるし言えるけど、言わない。その、なんにもしてない無駄に見える時間に、娘のあたまの中で、「ちゃんと作品を仕上げる」ことよりだいじなことがたくさん起こっていると、わかってくれているから。

 

そういう人や場所は、決して多くないと思います。友人は、本人自身も社会適合が決して得意ではないいわゆるアーティスト気質の人だから、というのも大きいかもしれません。友人には私がキャッチできない大事なことが、見えているのです。そういう大人が、娘の世界にいてくれることは、本当にありがたいことです。

 

私は、自分自身はこんなに「社会で一般的に望ましいとされること」にがんじがらめにされているけれど、決してこれが自分で心地よいわけでも、良いと思っているわけでもありません。むしろ本当はもっと自由にやりたいし社会から押し付けられる常識やルールへの抵抗も大きいのに、自分の基準に自信がないので、ひとえにその不安から、社会から求められる「ちゃんとしている」に、過剰に縛られてしまっているのです。

 

放っておけば私は、ついそこに娘もはめ込もうとして、娘も、自分自身も苦しめてしまうのです。

でも、本当は娘を同じ檻に入れたくはない。同じ性質があるのでやっぱり結果的にはそうなってしまうのかもしれないけど、それでも、「世間のルールに多少合わせられないからといって、萎縮する必要はない。このシステムの中ではちょっと苦労すると思うけど、あなたにはその型に入りきらない、すてきなところがたくさんあって、それこそが宝なんだ」ということを、伝えたい。

 

唯一救いと思えることは、私がこの自己矛盾に気づいていて、そこから娘を解放したいと思っていることを、自分で認識してる、ということです。

娘にはなるべくたくさんの時間を、上で書いた工芸教室のような場所で、過ごしてほしい。

自分のもとでキチキチと追い込まれるより、私に見えないものを見て評価してくれたり、放っておいてくれたりする人や場所に、どんどん出会ってほしい。

向き合えばガリガリと傷つけあう私たちですが、外で自分らしさをそのまま表して、自然に受け入れられている娘を見るときは、何とも言えず感慨深いです。

 

そしてそういう人や場所を感じ取って娘を送り込む、という嗅覚と瞬発力だけは、私には何とかあるようなので、絶望はしていません。

 

【発達障害は本当に増えたと言えるのか?】

私自身の関心事になったから、ということもあるけれど、ここのところ発達障害関連のことがメディアで扱われることが、急速に増えていると感じます。

 

その中で、「発達障害は昔より増えている」という言い方/書き方を目にしたことが少なからずあり、そのたびに何とも腑に落ちず、納得のいく説明も自分の中になく、もやもやしていました。

 

昨日フェイスブックで、このようなリンクがシェアされていました。

#318 発達障害は本当に増えたと言えるのか? - 石川 憲彦さん(児童精神科・小児科医) | mammo.tv

 

タイトルを見て、「またいつものような、『発達障害は医学会・製薬業界がねつ造したものだ』みたいなやつか」と思ってピクリとしながら、読んでみました。

この、石川氏という医師のことは、知りませんでした。

 

私なりにざっくり受け取った要点は、だいたい以下のとおりです。

 

・80年代頃から出てきた「発達障害」の概念は定義がどんどん変化していて、増減がはかれるようなものではない。

・現代では社会の隙間から漏れる人が多く、この漏れが大きいことが「発達障害が増えた」という声と関係しているようだ。

・効率的で合目的で合理的、すなわち「はやく、ちゃんと、きちんと」が社会人の評価のベースになった。

現代社会では、「自然界における合理」を生き物として判断していく学習は阻害され、代わりに関係性偏重でフィーリングや行間を読む資質が過剰に求められるようになった。

・人間の、言語をつかさどる脳が飛躍的に発達したのは人類の歴史ではごく最近で、その機構は完成しておらず進化の途上。ところが現代社会はある特殊な資質を良しとし、そうでない脳は「異常または病気」として扱い始めた。

・人間の作った環境に馴染まないと困るから医療に預ける。今起きているのは、自然淘汰ではなく社会淘汰。

 

内容には、とても納得しました。

時代によって、環境によって、目指すべきとされる人の生き方も、優劣の評価基準も、全く変わります。

戦時下では子供に武器を持たせて人殺しを教えるのに、平和な状況ではそれは許されざる悪になります。

 

確かに発達障害もその意味では社会と連動して、社会を反映するかのようにクローズアップされてきたものだと思います。

単純労働などに従事して、特に不適応の問題が大きくなかった時代もあるかもしれない。あるいは、重度の場合は座敷牢など見えないところに追いやられ、ないものとされていたのかもしれない。

 

現代日本では、一応すべての人が基本的人権を保証され、社会の中でこぼれ落ちないようケアされるべきだ、ということになっています。にも関わらず、仕事の割合もサービス業がほとんどになって、複雑で臨機応変なコミュニケーションを基礎にした社会となり(特に都市部では)、また「ちゃんとした対応」が要求されます。その資質がない人は無能、もしくは社会不適合とみなされるようになっています。

「KY」「人の気持ちがわからない」「細かい、『社会人としてきちんとする』ためのルールを守れない」発達障害者は、そういうわけで「障害者」となります。

 

この、「障害」という言葉は、何か実態として障害が存在するという意味ではなく、あくまで本人にとって、日常生活または社会生活に適応するのにハードル=障害がある、ということを言うのだ、という説明を何度か目にしましたが、一般的に「障害者」と言えば、やはり「マジョリティの人に備わっている何かが欠けている人」という印象を持つ人が多いでしょう。 

 

この理解の仕方には、私もずっと違和感がありました。というかあります。

娘も私も、ADHDアスペルガーの傾向があるとわかった今、確かに「大多数の人は暗黙のうちにこういう対応を求めるものだ」ということが、できないことがあります。でも、それが、「病気で、あるべき何かが欠損している」と言われると、うーん…となります。

たとえば小学校で、チャイムで区切られた時間にそれぞれやるべきことだけをきちんとやって、友達とは阿吽の呼吸で協調して、必要があれば罪のない「良かれと思っての嘘」など時々うまくついて、みんなが面白いということを面白がって、どうしても納得いかなくても命じられたことにはしたがって…ということが目指すべきあり方だとして、それがうまくできない娘が、「劣っている」とは思いません。

 

ただ、これまで書いてきたことと逆のことを書きますが、「脳の発達の仕方がマジョリティの人と違う」ということは、やっぱり相当に生きづらいことなのです。

それは「病気」とも「劣っている」とも思わないし、そして時代を超えて大局的な見方をすれば、もしかしたら全員共倒れの絶滅を防ぐために生まれた、別の進化の鍵を握る少数派なのかもしれないし、だけどやっぱり、この短い人生をここで生きる人間としては、現代日本のこの現状ありのままが、与えられた舞台設定なわけで。

 

もちろん少しでも理解を求めていく啓蒙活動は必要なのだと思いますが、それはそれほど簡単なことではないし、その前に私たちには個人の、日々の生活があります。それを最大限快適に、幸せに、と思ったとき、やはり悲しいかな、ありのままの自分をなるべく肯定しつつも、社会のあり方にある程度すり合わせていかないと、友達と楽しく交わることも仕事を得て生きるためのお金を稼ぐことも難しいのです。

 

うちは私も娘も今のところ投薬などの医療的措置はとっていませんが、それがないと日常生活・社会生活に支障をきたす場合、得られる利益と不利益をてんびんにかけて決めれば良いことだと思います。いつだって、何の薬だって、どのみち完璧に安全な薬なんてないのです。

 

発達障害が増えているとかいないとか、何十人に一人いるとか、は本質ではありません。医者や学者や製薬会社や政界や、いろんなオトナのいろんな事情や利権問題ももちろんあるでしょう。そういうのは魑魅魍魎の世界なので私はあまり踏み込む気はしません。

大切なのは「自分はちょっと、みんなと違って生きづらいな」という自覚がある当事者たちが、今与えられている環境でどれだけより快適に生きるか、を目指せればいいな、ということだと思います。

診断がどうかとか、投薬の是非とかは、十把一絡げに「こうあるべき、こうすべき」と誰かが言えるものではありません。

 

 

【発達凸凹の私が予防線を張る理由】

これから書こうと思っているのは、「私がどうしていつも、自分ができそうなことを抑えて見積もって、常に出し惜しみしたり予防線を張ったりするか」ということについてです。

 

私は、元気でいつも体調がいい、という状態は子供のころからありません。いつも疲れているか、頭が痛いか、とにかくどこか不具合があるのです。

何をしていても、片頭痛発作で途中でいつリタイアになるかわからないし、運よく頭痛が出なくても、どこかへ出かけたり誰かと会ったりしたら、もう確実にその後は疲れてしまいます。たとえそれが近所のスーパーへ行くだけであっても、帰ってきたらとりあえず一回倒れるのです。

たとえば今は週三で一日五時間ほど仕事をしていますが、これで限界ぎりぎりです。昔ふつうにフルタイムで働いていた時代は、途中でちょこちょこトイレへ行って10分寝るとかしてました。通勤はほぼ白目向いてました。

それから中高のときは、朝から夕方まで続く授業の間、姿勢を保って座っていることもきつかったし、第一眠くて三分の一くらいはどうしても寝てしまうので、大学受験を諦めかけたときもありました。

 

今朝も、何日も掃除機をかけていなかったので、今日こそは、と力を振り絞って朝掃除機をかけたのですが、疲れているときはこれがかなりの負担。背中はパンパンで痛いし、掃除機重いし。途中で何度もへたり込んで休憩しては、なんとかやり終えました。それを出勤前に横で見ていた夫が、「辛いなら今しなくてもまた今度にしたら?」とさらっと言いました。

それが、ダメなのです。

多分夫にしたら、掃除機が重いとか辛いとか、まったく想像不可能なことです。だから、今は体調悪くて辛いなら、ちょっとやるタイミングを延ばせばいいだけでは?と思うのでしょう。

でも、それは「掃除機は普通に息をするようにやれるもの」かつ、「具合が悪ければ、休んでいればじき元気になる。元気なときにいろいろやればいい」と当たり前に考えているからです。

 

私にとって、「体が辛くなくて、日常のことが普通にやれる時間」というのは、とても貴重な時間です。やれるときにやっておかないと、仕事も、洗濯も、洗い物も、掃除も、ご飯も、明日の支度も、すぐに「借り」となって積もっていきます。それが、一番のダメージになるのです。

頭が痛い~、といってちょっと休んでいたら、その間にたまった負債を、未来の自分が負わないといけなくて、その自分が「いろいろやれるくらい調子がいい時間」がどれだけあるかは、いつも甚だあやしいのです。

 

そういう私なので、予定を入れるときはすごく慎重になります。まず日曜日には予定を極力入れたくないです。土曜日にどこかへ出かけるなら、日曜日はその回復日&倒れたときのバッファ日として確保です。同様に、平日も予定はなるべく連日にならないようにするし、一日のうち二件あったらすでにかなりのプレッシャーです。

それから家族で出かけても、夜に向かって夕食やら明日の支度やらが押していくと気が気でないので、なるべく早く巻きで帰りたがります。

仕事に関しても、同じ。なるべく予防線を張って、臨機応変系とか、骨子がしっかりしてなくてテキトーに投げられる系とかは、難しい顔をして極力避けます。

 

 世の中では、基本的には活発でノリが良くて、好奇心にまかせていろいろチャレンジする人の方が人気者だし、楽しい、ということになっていると思います。いやいや、そんなイケイケ・ポジティブ過ぎるのも疲れるよ、ちょっとダウナーなのもいいんじゃない?という声も聞こえそうですが、私のノリの悪さ&水を差す感じ(帰ろう、とか言って)はかなり極端なので、それはやはり家族で出かけたりするときには非難の空気をムンムンに感じるわけです。

 

四年前、こんなことがありました。

私は2人の子ども両方とも、出産当日までの壮絶なつわりに始まり重い出産、弱ってぼろ雑巾のような産後と、とにかく産前産後の落ち具合が尋常でなかったのですが、それは置いといて。 一人目で地獄を見たので産後にサポートなしでは死ぬ、でも弟のところにもちょうど同時期に赤ちゃんが産まれて私の母は売約済み、ということで

二人目の産後は関西から夫の母に一週間ほど来てもらったのでした。

義母は体力があり、散歩もデパートめぐりでも何時間でも行けるし、歩いて30分くらいなら「すぐそこ」と言っちゃうような人です(つらい)。

うちで二人きり(赤子をのぞいて)でいろいろ話しているとき、ふと私の頭痛の話題になり、「頭が痛いとどこにも出かけられないし、痛くない時も次の日倒れたらと思うとなかなか外出に気乗りしないんです」と言ったら、

義母「へえー、でも私は頭痛くても面白そうだったら出かけていくなあ」

私「うーん行けたらいいですねえ。でも痛くなっちゃうとかなりなので、ちょっと動けないんですよね…」

義母「ええ~でも、それでも面白い方が私は勝つなあ。だってそれで諦めたらつまらないじゃない?」

私「…(泣きそう)」

という流れになり。

 

まあ、頭痛とか慢性疲労のない人にわかってほしいと期待するのが所詮間違いなのであって、適当に流せばよかったんですが。産後の情緒不安定もあり、このときはなぜか向こうもやけにむきになって、ぶつかってしまったんです。そして、この些細に見えるだろう会話が、いまだにトラウマになってしまいました。

 

昔から、ちょこちょこ、こういうことは言われてきました。友達にも、「いつも具合が悪いとか言うけど、病気に逃げてない?」とか、「意志が弱い」とか。

それはもう、私自身が一番思っています。元気でノリがいい人になりたい。ちょっと無理してでも頑張ったり、新しいことにどんどん手をのばしたり、迷いなく誘いに乗ったり、後の心配なんかしないで楽しい時間に身を任せたり。

だけど、それがきかない体とメンタルなんだと、もうずいぶん早い段階から身に染みてわかっているのです。無理をしたら、後で取り返すのが何倍も何倍も大変なのです。

 

それでも、これまでは自分がここまで心身ともに脆弱であまりにも無理がきかないのがどうしてだかさっぱりわからなくて、やっぱりどこかで「これは私のやる気の問題なんだ。ノリが悪いのも怖がってばかりいるのも後ろ向きな性格のせいなんだ」と自分を責めていました。

そして、最近やっと自分に発達凸凹があるという事実に行き当たり、なんとなく「そういうことだったのかあ~」というのが、見えてきたのです。

 

やはりどう考えても、このレベルで体がポンコツというのは尋常でない。頭痛については以前こちらの記事に書きましたが↓

 

marumushix.hatenablog.com

 おそらく、この疲れと、売るほどある不定愁訴たちはほぼ、発達障害に由来するのではないかと思っています。

主な要因としては、

(1)感覚過敏による恒常的な疲弊

(2)社会的行動原理がオートマチックに発動しないので、常に過緊張&過集中の状態で、周囲の状況を探って読みながら全力でマニュアル運転している

(3)感覚統合が鈍く運動がずっと苦手で、普通に基礎的な筋力体力がない=HPも少ない

(4)怒りや不安などの感情の処理がうまくできず、ストレス反応などとして体にダメージを与えている

 

あたりだと考えています。

 

本当、体がどこも凝っていなくて軽くて、元気いっぱい!っていうの経験してみたいです。そんな人になったら間違いなく性格も全く変わるでしょうね。

こんなわけのわからんポンコツで、もう生きてんのtsu・ra・iんですけど~!と思ったことも数えきれないですが、まあでも私の体はこれなので、仕方ないです。油差し差し、死ぬまで乗っていくです。そして、自己嫌悪もするけれど、理由がなんとなくわかった今、予防線を張るのも、ノリが悪いのも、致し方ない、と諦めもだいぶつきました。

 

実は娘が幼児の時からすでにこんな感じです。やっぱり出方も似ちゃうんですね。

でも、自分もこうだから、娘の、たぶん普通の人には理解不能な細かいぐずりや訴えも、わかります。あまりにすごくてさすがに「うがーーーっ!!うるせえ!」ってなることも多々ありますが、でもわかってやることはできるのです。

そんな人間が周りに一人もいないよりは、娘にとっては救いになるかもしれません。 

 

いつも辛い辛いと泣き言を言っている人は、周りからしても、鬱陶しいでしょう。でも、もし私と同じように発達障害もしくはボーダーの可能性があって、慢性的な体調不良を抱えている人を身近に知っていたら、その人は外に漏れ出ている泣き言の十倍、じっと一人で我慢していると、想像してみてほしいのです。

 

泣き言を言うのは本人が一番苦しいものです。表現できているのはほんの氷山の一角です。その声を、少しでも拾ってもらえて「そうなんだ」と受け止めてもらえるだけで、すごい救いになります。目に見えない不調なので、多くの人には理解不能でしょう。でもこんな人が周りにもいるかもしれない、あの人も、うちの子も、そうかもしれない、とチラリと考えてみてもらえたら嬉しいです。

 

 

 

 

【発達ブログだけど今日は漫画の話】

なんか、全然ここに書くようなことじゃないかもしれないんですけど。

 

最近読んだ漫画が、めっちゃくちゃ良くてですね。

 

とりあえずそれを紹介したくて仕方がない!っていうのが

この記事の主旨なわけですが。

 

これです↓

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

 

 

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

 

『子供はわかってあげない』田島列島

 

これ、宝島社「このマンガがすごい!2015」 第3位、

マンガ大賞2015 第2位

の作品なんですが、本当、素晴らしかったです。

 

好みの創作物をさらすのは恥ずかしいですが、とにかく傑作です!

いろんな評を見ても、「甘酸っぱ過ぎる青春ボーイ・ミーツ・ガールもの」って感じになっていますが、はい全くそのとおりです。

高校生の男の子と女の子の、ひと夏の冒険物語。かつ、探偵とか新興宗教とかいろんな事情のいろんな家族の話とか、要素もりもりテンコ盛りなんです。だけど、全部が見事に溶けあって、なんとも苦しくなるばかりに切なく、それでいて元気になる世界が広がっているのです。

 

とにかく、キャラクターがみんなものすごく魅力的です。もうこれは読んでもらわないとわかりません。主人公の二人が、悶絶するほど可愛いです。書道部男子のもじくんはとりあえず私の好きな二次元男子の中で暫定1位に躍り出ました。少なくとも文系ヒーロー部門No.1です。

ということでもうキュン死必至なこの作品ですが、これ、一瞬「ユルくてふわっとした」感じにだまされますけど、実は作者の物語構成のうまさとか独特の言語感覚の妙とかに支えられて、実に周到に織りなされているんですよ。だから、わかりやすいエンタメなのに浅くない。後半から最後に向かっての重低音感と疾走感もすごい。

 

興奮して書きなぐりました。

 

そういうわけで、この『子供はわかってあげない』、

久々に来た!これキター!!ってなってたわけですが、

こんな、青春漫画にかき乱されてる私、っていうのは我ながらとても意外なのです。

 

私はそもそもあんまり「恋愛」とかいうワードに反応しないたちです。

昔から、いわゆるオンナノコが夢見る恋愛の話とかに全然興味も持てなかったし、

なんでこの世にある歌という歌の大部分が男女の愛について歌われているのか

まったくもってよくわからないのです。

 

誰かとつき合うときも、「かっこいい♡」とか、「いつも一緒にいたい♡」

みたいな感覚はなかったし、束縛やら嫉妬やら全部めんどくさいしわからないし。

とにかくヒトとして面白い人と、面白い話がしたい、ということしかなかったです。

 

なので、私っていわゆる恋愛感情とか、恋愛じゃなくても友情やら学園青春ものやらに心が動くってことが、ない人なんだ、と長いこと思ってたわけです。

 

が。

 

ちょっとここのところ雲行きが・・・。

 

これまでブログにも書いてきている壮絶な娘との関係が少しずつ落ち着いてきて、人間らしく好きなことの追求などできる余裕が出てきたここ数年で、私はこれまでの人生になかった「アニメや映画や漫画を味わう」という楽しみを覚えました。

 

それも、いちいち結構なハマり方をしています。

ハマったらとりあえず映像なら恐ろしい勢いで軽く3周くらい観てはさらに深読みして喜び、製作陣の他の作品や歴史など周辺情報をあさり、外出時は常にiPhoneで、オープニング・エンディング・BGMをエンドレスリピートです。(当然家でも音楽を流しているので3歳児がアニメOPフルコーラスとかしてます。)

挙げ句の果てには設定資料集を買ったりキャラクターの写し絵をしたりしています。

 

さすがにもう一人の自分は引きまくっています(もちろん夫も、あ、娘も・・・)が、とにかくこういう、たぶん思春期や青年期に普通は通るであろう独特の感じが、はじめてやって来ているのです(汗)

 

ここから、「なんでこんな話をこのブログに書いているのか」ということなんですが。

 

この「情緒の発達の遅れ」は、私の発達障害、主に多分アスペルガー部分に由来することなんじゃないかと思うのです。これ、昔ガンダムについて書いた記事でも触れたんですけどね。

アスペルガーの人は人の心の機微がわからない、みたいなイメージがありますが、おそらくある部分、それは真実でしょう。

ただし、私の実感としては「わからない」のではなく、「そういう部分が育つのに、膨大な時間と経験を要する」という方が近い気がするのです。それは私のアスペ度?がそれほど重くないからかもしれませんが、みんなが10代、20代の頃にわあわあ盛り上がったり夢中になっていたことが、今、遅ればせながらわかる・・・という感じなのです。

 

発達障害者の精神年齢は定型者の3分の2」という、出所がよくわからないフレーズを何度か目にしましたが、それ、わかるな、という気がします。

 

私は自分の子供時代や若いころを思い出すと、いつも透明のシャボン玉のような膜に周りを覆われていたようなイメージが出てくるのです。

そして、いわゆるみんなが言うような「青春」みたいな時代ってなかったなあと。

みんなと、心地よい過ごし方も好きなことも違っていたし。なんかすごく冷めていたし。

けれども、20代半ばまで続いた井戸の底のような鬱を抜け、ケッコンして子供を産んでまた壮絶な育児地獄の数年を抜けて、今、来た道を振り返ってみると。何というか今は若い頃にぼんやり膜に覆われてやり残してきたこと、感じて来なかったことを、改めて取り戻そうとし始めた、そういう時期なのかなあ、と思っています。

 

そして、アスペルガーで感情も人の心の機微も行間もよく分からなかった私でも、さすがにちょっとはいろいろ経験したので、やっと少しずつそのへんも分かる基礎筋力がついてきたのかな、と。

 

そんなわけで、年甲斐もなく幼稚な揺らぎにでも、これからしばらく気が済むまでは身を委ねてしまえ、とそんなことを考えている41歳の初夏です。

 

【知識は使ってこそ】

このブログでは基本的に、発達障害という新しいメガネをかけた人になった私が、そのレンズを通して見たこと、考えたことを思いつくままに書いていく、という形式を取っています。というか、始めてみたらそういうパターンになっていました。

 

今日はちょっと毛色の違う記事になります。

めずらしく親視点で!

娘のこだわりの強さ、切り替えの悪さなど、当初はどうしてそんなことになっているのか、どう対処したらいいのか皆目わからず、何年もただ疲れ果ててへたり込んでいる状況でした。

 

昨年、やっと発達障害ということにたどり着き、そこからいろいろ本を読んだりネットで情報を得たり、ペアレントトレーニングに通ったりしました。その間、同時に自分自身のことについての考察も進めていたので、まさに「発達障害漬け」の日々でした。

気がつくと、中だるみというか飽きたというか疲れたというか、「なんでもかんでも発達障害に結びついてしまう。なんかもう、いいや〜」という感じになっていました。

 

あまりにそのことばかりにとらわれ過ぎて、口から出る話題もその切り口ばっかりなので、夫から辟易とされてる感たっぷりなこともあったし、過集中・過吸収?のあまり息切れして、せっかく知識を得てもそれは単に知的欲求にエサを与えているだけで、肝心の「実践」のほうはさっぱりでした。

 

ペアトレも、2ヶ月ちゃんと通ったのです。テキストの内容も良かったし、家で実際に教えてもらったことを試してみて、少しだけど娘との関係が変わっていった実感はありました。

が、しかし・・・。

終わって日が経てば、また以前と同じように、感情に任せてまったく効果もない怒り方をしてしまっています。意識的にほめることもやれてないです。

 

普段Twitterで交流させていただいている同じような境遇のお母さん方は、みなさんとてもお子さんのことを考えて、実際にいろいろと情報を活用して、実践に移してしかも継続されている方が多い印象で、まったくいつも感嘆してしまいます!

 

どうして私は、頭で知ろうとするばっかりで、実際に娘のためにそれを役立ててあげられないのだろう・・・と、いつも落ち込んでしまいます。

 

自分なりに敗因をまとめてみました:

<飽きっぽいADHD特性>

・せっかく教わった、いいことを忘れる。

・モティベーションが続かない。

・新しい他のことに興味の対象が移り変わって行ってしまう。

 

<こだわりの強いアスペルガー特性>

・これまでのやり方を変えるのがすごく辛い。

・感情の抑制がきかないので、感情のぶつかる場面にどうしても対応できない。

・いいなと思えることも、「まず試してみる」ができず、細部の調整で立ち止まってしまう。

 

と、いうようなことではないかと推測します。

 

私はせっかくいろんな有益な情報を仕入れても、初めて目にしたときの新鮮な興奮と知的満足感だけで終わってしまい、極論すれば一種のエンタメとして消費されて、脳みその中のどこかの引き出しにごっちゃりとしまい込まれている訳です。

 

しかし、そんな分析したところで、それで終わればそれこそ無意味です。

焼け石に水かもしれませんが、定期的に植物に水をやるように新しいモティベーションをちょこちょこ投入してやらなければ、私は動けません。

 

少し前に、こちらのなないおさんのブログで知って読んだ本があります↓

放課後等デイサービスなど小学生も通えるの療育と、地元情報の探し方 - うちの子流~発達障害と生きる

 

発達障害のある子どもができることを伸ばす!学童編』 

発達障害のある子どもができることを伸ばす!  学童編

発達障害のある子どもができることを伸ばす! 学童編

 

こちら、目から鱗!みたいな内容ではないのですが、まさにタイトルそのままのことが

 シンプルに、ひねりなくまとめられています。

どこかで聞いたことも、リフレーズされると「そうだ、そうだった!」と改めて思い出すことができました。知ってるつもりになっていて、その実一切、現実の行動に反映されていなかったことだらけ。

 

ここから先は自分の覚え書きのようなものですが、娘との関係性改善のために思い出して意識しておこう、と思った内容を簡潔にメモとしてまとめておこうと思います。

 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

・様子を見ていればそのうちできるようになる、という根拠のない思い込みのままに放置することは最も避けたい対応。「自然にはわからない」認知の特性」があるわけなので、わかるように教えなければできるようにならない。

 

・応用が効かないので、「これができたから、あれもできる」とはいかない。

 

・「変えない、やめない、始めない」は発達障害、なかでも自閉症スペクトラムの子供たちに特徴的なこだわり行動。叱ったり禁止したりして無理に取り除こうとしても逆効果。

背後にある不安な気持ちを認めつつ、こだわりよりも強い楽しみを提供する。

 

<関わり方の基本>

・問題行動に注目するのではなく、その場面でどうすればいいのかを教える。

・できないことは教えないとわからない。

・教え方に工夫が必要(通常のやり方ではわかりにくい)。

・特性を考慮する。

・今できることと、できないことを明確にする。

・評価をわかりやすくする。

・必ず成功体験にする。

 

<環境を整える工夫>

・事前に予定を示しておく。

・指示やルールは視覚的に示す。

・苦手なものを取り除く。

・手がかりを目立たせる。

・本人の好きなものを取り入れる。

   (内容出典:発達障害のある子どもができることを伸ばす!学童編』 )

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

改めてリストにしてみると、どれも「言うは易し・・・」という感じですね!

それこそ娘と同じで、強制的に目に入るように、付箋とかに書いてPCモニターにでも貼っておいたらいいんじゃなかろうか。

 

そういえば、昔、娘に、「おかあさんも怒り過ぎちゃうからさあ、『あんまり怒りすぎない』とか、『怒りたくなったら深呼吸』とか書いて、壁に貼っておけば?」と言われたことがありました。

軽く流してたけど、いや本当だねえ。

 

【価値基準に自信がない】

連休で家族がいない。1人だとものすごく怠惰な生活をしている。ダメ人間そのもの。

 

別にそれは誰に非難される筋合いもないし、他の人がそうだったら、

え?何が悪いの?別に全然いいんじゃない?と思うだけ。

 

でも私は思い描いていた「やりたいこと」や「やるべきこと」があって、それが全くできていないので、想定していた自分の達成イメージと現状のギャップのあまりの大きさに自己嫌悪で凹む。

考えれば私はいつでもそうで、こうしたい、こうありたい、こうするべき、の設定をたぶん身の程をわきまえない高さに設定してしまう。で当然そんなのできないので、そのギャップで苦しむ。

 

対して夫は、自分でやったことに基本後悔しないし、自己嫌悪は絶対しない。
毎日のように食べ過ぎて落ち込むのを繰り返す私のことは、全然理解できない。食べたいなら食べればいいし、食べたんなら気にするな。ということである。

 

同様に子供を叱りすぎても思わず手が出てしまっても、彼は自己嫌悪しない。私は死ぬほどする。

 

結局、私にとっての発達障害の困りごとというのは名前をつければいっぱいあるけれど、突き詰めればこの「なりたい自分になれていない、やれるべきと思っていることがやれない」というのがとても大きいんじゃないかな。
(あ、双璧の「家族が、世界が、自分の思い通りにならない〜!」という自他境界線問題もあるけど)

 

何が良いことで何が悪いことか。
何が正しくて何が間違っているか。
何が面白くて何が面白くないか。
何が好きで何が嫌いか。

自分がこうありたい、こうあろう、というイメージや目標を設定するには、こうした価値基準を組み合わせて使うものだと思う。で、結局、何がしたいのか、がわかる。

 

思いついて書いた上の4つ、どれも時代背景やら生まれた場所やら教育やらのいろんな条件によって全然変わってくるし、基本的には後天的に学習していくものだと思う。

それでも人間には生まれつき、こうした「現行のソフトウェアをダウンロードする」ための基盤システムみたいなものが備わっていて、最初にベースを与えられれば、まずまずそれと整合性を保って自分でその後にシステムを構築していけるようになってるんじゃないだろうか。

 

夫はアスペルガー無しのうっすらADHDボーダー、あたりと考えているんだけど、多分彼は自分の中のシステムの整合性が取れているんだと思う。だから好きと思えばやればいいし、正しくないと思ったらやらないし、やったことは自分で選択したので後悔しないし(ゴロゴロしたいと思ってゴロゴロしているんならそれは楽しい選択なので何ら自己嫌悪の種にならない)、対人関係の中でどういう対応をするかも、感覚的に湧き上がってくる正誤、善悪、気分、みたいなものを瞬時にバランスよくまとめてアウトプットするので、結果がどうあれ「自己矛盾」はないのである。

 

自己矛盾とは結局、「これでいいはず」と「こうしてみた」のつじつまが合わなくなることだと思う。で、私の場合「これでいいはず」が、自然に出てこない。

これは対人コミュニケーションにもそのまま言える。

 

私は見た目(特に第一印象)では、「社交的で対人スキルもあって理性的(→だから役員とかやれば?)」みたいなびっくりする評価を受けることもしばしばで、つくづく人は他人の内面というものはわからないのだなぁと思う。

人様からそういう評価をいただいても、自覚としては価値判断の基準が自分の中にないし、ブレブレだし、ソーシャルスキルに関する自信はすこぶる低い。この自信のなさの中身は、「どうも人とうまくやっていけない」とか「トラブルを起こしてしまう」とかではなく、「人と関わりを持っているときに常に、自分の対応がこれで良いのかに自信がない」ということ。


「これって大丈夫?」「文句言っていい?それとも悪いのはこっち?」「この場で正しい判断て?」が、わからない、自信がない。

 

だから、家族や友人のように間合いが取れて落ち着いている人間関係ならいいんだけど、仕事とか。全然わかりません。

仕事で初めての人にメールをするときとか、もう1本書くのにものすごい時間がかかる。これはお願いしていいのか、やってもらえて当然なのか、どういうニュアンスで伝えたら失礼にならないのか・・・。

 

この、初期設定で備わっていないバランス感覚を補うために、いつでもものすごい集中力で相手との関係や自分の立ち位置を察知しなければいけない。

私は子どもの頃から「私ってどういう人間?」ということをいつもモヤモヤと考えていたし、自己分析は癖みたいなもんだし、西洋占星術なんか勉強したのも、この「世界の中での自分の座標」みたいなものを明確にしたい、という渇望なんだと思う。

 

対人や社会における価値基準がわからない、ということの根っこに、私の場合はそもそも、「自分自信の欲望や価値基準がわからない」があるのだろう。

 

だから、「あるべき自己像」を作る時に、自然な自前のイメージじゃなくて、「よいとされている」外からの基準を持ってきてしまう。これは夫にしばしば指摘される。

「あなたは本当はそういうのすごく嫌いなはずのに、人の何倍も、借りてきたような一般常識や悪しき慣習に縛られるよね」と。

嫌で嫌でしょうがないのに拒絶できなかったりするのは、結局自分の価値基準に絶対的な自信がなくて、「くそくだらない」と思える慣習でも、どこかで「そういうものだというんなら、それに従わなきゃいけないんじゃないか。なぜなら私はその正誤を判断できないから」と思ってしまう。

 

自信を持って「自分はこう思う!」「これが正しい!」「これが好き!」と言いたい。若い頃は、自分はそういう軸があると思っていた。今から思い返せば、むしろそれは軸がない故に不安で不安で、外から借りてきた鎧を着ていただけだった。そのハリボテは20代の初めにど派手な音を立てて崩れ、そのあと私はすっかり虚無の海に投げ出されてしまった。

 

「正しい」の呪縛はおそろしい。

前以上に「正しさ」という圧に対して懐疑的で慎重になった私は、どうやら自分の中から湧いてくる(ように感じる)価値基準に対しても、身構えるようになってしまったようだ。

 

この悩み、長年自分のテーマだとは思ってきたけれど、やっぱり発達の問題かと思うんだなあ。これが結局、特徴としてよく言われる「社会性の欠如」ということなんだろうか。社会性って、どういう価値基準でどう行動するか、ってことだと思うから。

だとするなら、他のアスペルガーの人はどうなのかわからないけど、「社会性に欠ける」というのは私の場合、社会性がすっぽり抜けていてマイペースに生きている訳ではなくて、「みんなが自然に体得している社会性や価値基準を、ものすごい努力をして場面場面でいちいち探らないと行動できない」ということ。

きつい。

 

複数のテーマがごちゃごちゃと入り混じってしまったけれど、これも自分の整理のために書いている!今回はこのまま残しておく。

セルフイメージ、自分の欲求、自己矛盾、善悪/正誤、対人関係における価値基準、あたりのことについて、頭の隅に置いてもうちょっと考えていこう。