なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

スポンサーリンク

【意義がわからない、ということ】

昔から、「それをやることの意義がわからない(みんなやっているようだけど)」と思うことがよくある。

 

例えば中学とか高校の頃で覚えているのは、

「物語を読む」ということ。

誰かが作った、架空の世界の物語を読む、という行為がどう楽しいのか、何のために人がしているのか、よく理解できなかった。

 

物心つく前から絵本や図鑑は大好きで、むしろ外遊びは苦手だったので本を読んでばかりいたけれど、それは「お話の世界に入って遊ぶ」というよりは、文字情報や言語のシステムを知って、いろいろなタイプの文章を読んだりボリュームの大きいものを読むほど、より高度な複雑なことが表現されている、ということが面白かったのと、絵本の挿絵を見るのが楽しかったのではないかと思う。

現実の話ではないのに、本や映画などの作品に感動して泣いたりする、という感覚が全くわからなかった。 また現実ではあるようだけれど世界の何処か遠くで起こっていること、例えば飢餓に苦しむアフリカの子どもの映像などを見ても、特に感情が動かず、自分はおかしいのかと悩んだこともある。多分、自分の経験値から推測できないことについては、どう感じていいのかがわからないのである。

 (感情の形成は、私の場合、普通の人よりかなり遅かったと思う)

 

※その後、犬を飼ってからは、捨てられて殺処分にされたり残酷な動物実験に使われたりする動物のことを思うと煮え繰り返るほどの感情に襲われ、「動物を虐待する人間を暗殺する仕置人になりたい」と思ったり、大学でネイティブアメリカンやアイヌなどの先住民の権利回復運動に関わってからは、世界で理不尽な扱いを受けている弱者に自分が情処不安定になるほどシンパシーを感じたりと、少しでも自分が実際に接点を持った対象に対しては、逆に距離感がつかめないほどの思い入れをすることがあった。

 

話がそれた。

 

あと、スポーツなどで勝敗を競うことについて。

あるルールにのっとって、ボールをどこかに入れたり打ったり、走ったり飛んだり、速さやら高さやらを競う。

それはつまり、その競技ごとのルール=制約の中で、体を鍛えたり訓練したりしてその成果をぶつけ合って、勝ったほうはより努力をしたということで、その頑張りが評価されるのが嬉しい、ということ?

・・・という、なんか映画でロボットが人間に質問している場面のようになってしまう。

とくに団体競技で勝ったら嬉しい、というのがよくわからない。

オリンピックで当たり前のように自分の国の選手を応援するというのも。

同じ国籍があるからといって私はその選手を知らないし、外国の選手も同じようにがんばっていて、ドラマはみんなにある。同じグループに帰属する人に無条件に肩入れしたり共感するのが「普通の人にとって自然のこと」であるなら、私はやっぱりそこはわからない人なんだなあ。

 

同じように、紅白歌合戦とか運動会の紅組白組で勝敗を決めるというのもわからない。大勢の人を無作為に二つに分けて、別に同じ組の人に何のシンパシーもないのにその日だけ団結意識を持つように、ということになって、最終的にどちらのグループが合計点が高かったから勝ち、と言われても、もうさっぱり喜ぶ理由がわからない…。

 

ここまで書いたような、割と「本当になぜだかわからない」ということに加えて、

一般的にも「これって意味ないよね・・・誰得?」とみんなが思っていながらなぜか消えない慣習とか、そういう種類の「わからないもの」にも、多分普通の人よりダメージを受けがちである。

PTAでとにかく全員が「公平に」負担を負わなきゃならぬ、とか。

組織内の意味なしローカル・ルールとかね。

 

ただ、これまで生きてきて、そういうことを感覚的にはわからなくても、「何だか知らないがそういうことになっているのだ」ということは学んできた。そして、そういうことなんだよ、と説明されてから改めて取り組んでみたら、「何かちょっとわからないではない」と思えるようなこともある。

 

この、「意義がわからない」という感じ、おそらく大人になった今ではそれなりに薄まってはいて、社会でも多分必要以上に合わせたりすることもあって、外的な軋轢はそれほどないのだけれど、自分の中での処理にはかなりストレスがかかる。

これはもともと搭載されてる機能ではないので、私の場合は周りの人の行動を観察して、データを蓄積・分析して行きながら、「こういうものなのだ」というのを後天的に学習して補強し続けていくしかなかったのだと思う。

「なぜやるのかわからないけどどうやらみんなこれが面白いらしい、あるいはやらなきゃいかんものらしい」ということに対してバランスの取れた対応をとるのが難しく、

どうしても感覚的に受け付けないので「ちょっとKYでマイペースでこだわりが強い面倒くさい人」になってそういうものを避けるか、

逆に「嫌ならテキトーに去ったり力抜いたりすればいいのに」というところで必要以上に「期待される対応」を取ろうとして、へとへとになったりする。

 

どっちにふれてもものすごく疲れるので、この辺のさじ加減がもっとうまくなればいいんだけどなあ、と思う。