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なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【ベイマックスとガンダムと】

この間、映画「ベイマックス」を観たんだけど、このとき私はロボットであるベイマックスに自分を重ねて観ていた。

ベイマックスに人の感情は備わっていないけれど、人間を観察してデータを蓄積して行く中で段々、少しずつ人間的なやりとりを学んでいく。

 

もちろん私は人間なので無感情のロボットでもなんでもないのだけど、ただ感情のシステムは少しだけ人とずれているっぽいし、感情というものにはいつも飲み込まれたり翻弄されたりして、うまく扱えない。

 

人間のこころの機微やそれによって起こるドラマを味わうのが目的といっても過言ではない、映画やアニメやお芝居。

そういうものは、私にとっては長い間どこか苦手なものだった。嫌いとかではなく、観ても「よくわからない」のだった。断片は楽しめるし、シンプルなストーリーや演出なら理解もできるけれど、現代では特に映像作品はとても複雑になっているように感じるので、味わう前に、行ったり来たりする時間軸を頭の中で一本の線に組み直すことや、ストーリーの整合性を理解することだけで必死になってしまう。

 

ときに、私の夫は、子供の頃からの筋金入りのオタクである。小学校に上がる前からアニメや特撮のとりこになり、おやつ代にあてるお小遣いを貯めて隣町まで自転車で映画を観に行き、大学では映画研究会に入り、大人になってからは(現在では違う仕事をしているが)、映像が作りたくてCM制作会社でしばらくがんばっていた。

 

そんな夫からオタク話を聞かされるたび、「へーーー」と流していた私。話長くてしつこいし。

それに、オタク素養ゼロで完全に受け手の視線しか持ってなかった私は、彼がすぐ監督は誰だとか演出は誰だとか、これは何のオマージュだとか、特撮の手作り愛だとか、作品を作るためには死んでもいいというほど全てをかけている愛すべき狂った人たちの情熱とか、そういう話を聞かされるたび、

「何でこの人は裏方の事情みたいなことばかり見て、お話そのものを楽しまないんだろう。いつもマニアックな分析ばかりで、正直ウンザリ〜」と思っていた。

 

でも、そんな夫のウザ話も、結婚して10年も横で聞かされ続けているうちに、私の中にもそういう見方や楽しみ方の視点が、知らないうちに育っていたようだ。

 

それから、娘(発達障害)の壮絶すぎる育児を経験してから私は変わった、というのも大きい。

以前は、私自身は生きづらさを常に抱えていたけれど、それなりに身の処し方は学習していたし、ムリなものや人や環境からは基本逃げることで、生き延びてきていた。それは自然に身につけた自己防衛スキルだった。

ところが、娘は、私にとって生まれてはじめての、「どんなにしんどくても逃げられない対象」だった。しかもお互いに発達障害の特性がぶつかり合うので、まさに毎日が、感情の嵐に飲み込まれた2匹の獣が、咆哮しながら内臓をえぐり合うような日々だった。

 

そんな、これまでに経験したことのない感情のジェットコースターに何年も休憩なく乗りっぱなしで、その過酷なサバイバルの中、そもそも普通の母親にとっても育児は相当大変で特別なステージなわけで、私も普遍的な「一人の母親としての成長ステップ」を上がってもきた。

情緒面の成長が非常に遅かった私だけど、子ども(しかも相当なつわもの)を生んで、否応なくその方面の荒療治というかスパルタ修行を課されたわけである。

 

そして娘が年長になって少しだけ分別もつき、私も前よりは少しだけ精神的な余裕ができてきた頃、気づけば急速に、テレビドラマや映画が面白いと思うようになっていた。

 

きっかけとなった作品は、ひとつではないけど・・・やっぱり

 

あまちゃん

かなあ。

 

言わずもがなの、宮藤官九郎脚本による傑作ドラマである。

とにかく面白かった。クドカンという一人の脚本家の創り出す世界と、彼の当て書き(おそらく)により役と演じる役者が相乗効果で生かされ切って、しかもその役者たちはちょっともともとの印象とは違うような意外なイメージを引き出されていて、何より楽しそうだった、というのがよかった。

 

それからドラマや映画をどんどん観るようになり、作り手の意図や愛を読むことが楽しくなり。

 

いやー、映像作品も、お芝居も、こんなに人生を豊かにしてくれるもんだったんですね!!

などと、40過ぎて感慨にふけっているのである。

普通はこういうの、感性がみずみずしい(はずの)10代とかに感じていることだろうに。

 

で、昨年からのマイブームは、なんと今さらなガンダムである。

(発端は昨年、深夜枠で放送された「アオイホノオ」というドラマから…)

 

ガンダムはファーストシリーズの放送が1979年だから、私がまだ幼稚園の頃。

そこから、ある程度世界観は共有しているものの制作陣も違う全く別モノ、というのまで含めると、すごい数の作品が「ガンダムシリーズ」として世に出されている。

シリーズ相関図とかをネットで見てあまりのカオスに挫折しそうになったけど、

とりあえず押さえておくべき「マスト作品群」を片っ端から借りてきて、集中して観た。子どもも面白がったので一緒に。

 

ガンダム好きな友人(女子)から「G会」(ガンダムファンの集い)なるものを結成しているという話を聞き、

「へえーーーもの好き~。ガンダムってあれだっけ?なんか青い顔の人が出てくる」

「それは、宇宙戦艦ヤマトだろ…ガミラス星人だよ…」

 

という会話をしてから、半年のうちに2シリーズ計93話と劇場版アニメまで観ていた。

 

というわけでとにかくガンダム漬けともいえる昨年だったんだけど、その途中で娘と自分の発達障害の話が出てきたとき、なんだか、どうして自分がこんなにガンダムにはまったのか、わかった気がした。

 

これまで私が目にしてきたアニメ作品は、乱暴に言うとだいたい「勇気か友情か努力が大事だ」というお話だった。で、登場人物はそれを背負えるようなオーラがあるか、そうでなくても伸びしろのありそうなキャラで、「まっとうな」人間関係構築を学び、「まっとうに」成長していく。

 

ところがガンダムはてんで違っていた。生みの親の富野由悠季という人が一風変わっているようで、彼の世界観もまた独特に見える。

 

まず主役とも言うべきガンダムのパイロットが、ガンダムに乗る理由は突発的な成り行き。しかもその後も揺れたり拗ねたりして、やたら乗りたがらない。

そして登場人物たちはみんなおしなべて不安定だったり、感情むき出しですぐ怒ったり殴ったり泣いたりする。登場人物どうしのやりとりは、ちょっと説明のつきにくい妙な引っかかりがあって、安心して見ていられないようなざらつき感や違和感が残る。それは微妙におかしな間合いだったり、掛け違いだったり、過剰に淡々とした描写だったり、脚本の妙な言語感覚だったりするんだけど、とにかく「なにかが微妙にズレてて不安定」な感じ。そして、「人と人とは分かり合えない」という悲劇が、世界の基本法則である、という前提。

 

説明が長くしつこくなってきた!(ハマっているだけに)

 

で、「ニュータイプ」という概念である。

ニュータイプ宇宙に適応進化した、特異な能力を持った新人類で、深いレベルでの意識の交感ができる(=分かり合える)。

けれどもその、超越的な能力を持つはずのニュータイプたちは、物語中むしろその特異さゆえに悩み苦しんでいるように見える。

 

それと発達障害とを結びつけるのはあまりにもこじつけな気もするが、少なくとも人とのコミュニケーションにおいて「わたし何か微妙にズレてる」、「なぜだかわからないけれど、これまでうっすら、ずっと苦しかった、難しかった」という感覚が、すごく共鳴したのだ。

 

さて、1ヶ月後には『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザイン・アニメーションディレクターの安彦良和が手掛けた、コミックス『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』が、ついにアニメ化して上映されます。あのシャア・アズナブルセイラ・マスの兄妹の過去、流転の物語が明らかに…!わくわく。

 

と、いうことで。

 

ベイマックスからここまで話が飛躍してしまったけれど、人生も半ばで自分の発達障害を自覚し始めた私が、「普通の人」が若い頃夢中になったようなカルチャーを、遅ればせながら盛り上がって堪能していますよ!というお話です。