なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【発達障害は本当に増えたと言えるのか?】

私自身の関心事になったから、ということもあるけれど、ここのところ発達障害関連のことがメディアで扱われることが、急速に増えていると感じます。

 

その中で、「発達障害は昔より増えている」という言い方/書き方を目にしたことが少なからずあり、そのたびに何とも腑に落ちず、納得のいく説明も自分の中になく、もやもやしていました。

 

昨日フェイスブックで、このようなリンクがシェアされていました。

#318 発達障害は本当に増えたと言えるのか? - 石川 憲彦さん(児童精神科・小児科医) | mammo.tv

 

タイトルを見て、「またいつものような、『発達障害は医学会・製薬業界がねつ造したものだ』みたいなやつか」と思ってピクリとしながら、読んでみました。

この、石川氏という医師のことは、知りませんでした。

 

私なりにざっくり受け取った要点は、だいたい以下のとおりです。

 

・80年代頃から出てきた「発達障害」の概念は定義がどんどん変化していて、増減がはかれるようなものではない。

・現代では社会の隙間から漏れる人が多く、この漏れが大きいことが「発達障害が増えた」という声と関係しているようだ。

・効率的で合目的で合理的、すなわち「はやく、ちゃんと、きちんと」が社会人の評価のベースになった。

現代社会では、「自然界における合理」を生き物として判断していく学習は阻害され、代わりに関係性偏重でフィーリングや行間を読む資質が過剰に求められるようになった。

・人間の、言語をつかさどる脳が飛躍的に発達したのは人類の歴史ではごく最近で、その機構は完成しておらず進化の途上。ところが現代社会はある特殊な資質を良しとし、そうでない脳は「異常または病気」として扱い始めた。

・人間の作った環境に馴染まないと困るから医療に預ける。今起きているのは、自然淘汰ではなく社会淘汰。

 

内容には、とても納得しました。

時代によって、環境によって、目指すべきとされる人の生き方も、優劣の評価基準も、全く変わります。

戦時下では子供に武器を持たせて人殺しを教えるのに、平和な状況ではそれは許されざる悪になります。

 

確かに発達障害もその意味では社会と連動して、社会を反映するかのようにクローズアップされてきたものだと思います。

単純労働などに従事して、特に不適応の問題が大きくなかった時代もあるかもしれない。あるいは、重度の場合は座敷牢など見えないところに追いやられ、ないものとされていたのかもしれない。

 

現代日本では、一応すべての人が基本的人権を保証され、社会の中でこぼれ落ちないようケアされるべきだ、ということになっています。にも関わらず、仕事の割合もサービス業がほとんどになって、複雑で臨機応変なコミュニケーションを基礎にした社会となり(特に都市部では)、また「ちゃんとした対応」が要求されます。その資質がない人は無能、もしくは社会不適合とみなされるようになっています。

「KY」「人の気持ちがわからない」「細かい、『社会人としてきちんとする』ためのルールを守れない」発達障害者は、そういうわけで「障害者」となります。

 

この、「障害」という言葉は、何か実態として障害が存在するという意味ではなく、あくまで本人にとって、日常生活または社会生活に適応するのにハードル=障害がある、ということを言うのだ、という説明を何度か目にしましたが、一般的に「障害者」と言えば、やはり「マジョリティの人に備わっている何かが欠けている人」という印象を持つ人が多いでしょう。 

 

この理解の仕方には、私もずっと違和感がありました。というかあります。

娘も私も、ADHDアスペルガーの傾向があるとわかった今、確かに「大多数の人は暗黙のうちにこういう対応を求めるものだ」ということが、できないことがあります。でも、それが、「病気で、あるべき何かが欠損している」と言われると、うーん…となります。

たとえば小学校で、チャイムで区切られた時間にそれぞれやるべきことだけをきちんとやって、友達とは阿吽の呼吸で協調して、必要があれば罪のない「良かれと思っての嘘」など時々うまくついて、みんなが面白いということを面白がって、どうしても納得いかなくても命じられたことにはしたがって…ということが目指すべきあり方だとして、それがうまくできない娘が、「劣っている」とは思いません。

 

ただ、これまで書いてきたことと逆のことを書きますが、「脳の発達の仕方がマジョリティの人と違う」ということは、やっぱり相当に生きづらいことなのです。

それは「病気」とも「劣っている」とも思わないし、そして時代を超えて大局的な見方をすれば、もしかしたら全員共倒れの絶滅を防ぐために生まれた、別の進化の鍵を握る少数派なのかもしれないし、だけどやっぱり、この短い人生をここで生きる人間としては、現代日本のこの現状ありのままが、与えられた舞台設定なわけで。

 

もちろん少しでも理解を求めていく啓蒙活動は必要なのだと思いますが、それはそれほど簡単なことではないし、その前に私たちには個人の、日々の生活があります。それを最大限快適に、幸せに、と思ったとき、やはり悲しいかな、ありのままの自分をなるべく肯定しつつも、社会のあり方にある程度すり合わせていかないと、友達と楽しく交わることも仕事を得て生きるためのお金を稼ぐことも難しいのです。

 

うちは私も娘も今のところ投薬などの医療的措置はとっていませんが、それがないと日常生活・社会生活に支障をきたす場合、得られる利益と不利益をてんびんにかけて決めれば良いことだと思います。いつだって、何の薬だって、どのみち完璧に安全な薬なんてないのです。

 

発達障害が増えているとかいないとか、何十人に一人いるとか、は本質ではありません。医者や学者や製薬会社や政界や、いろんなオトナのいろんな事情や利権問題ももちろんあるでしょう。そういうのは魑魅魍魎の世界なので私はあまり踏み込む気はしません。

大切なのは「自分はちょっと、みんなと違って生きづらいな」という自覚がある当事者たちが、今与えられている環境でどれだけより快適に生きるか、を目指せればいいな、ということだと思います。

診断がどうかとか、投薬の是非とかは、十把一絡げに「こうあるべき、こうすべき」と誰かが言えるものではありません。