読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

スポンサーリンク

【終わり時間が来てもやめられない娘と、それを責める私】

先日、はっとするようなことがありました。

 

娘は月に2回、私の友人がやっている小さなクラフトショップの子ども工芸教室に行かせています。クラスには年長~小5の子たち6、7人がいて、そのときどきのテーマで工作とか、絵とか、手芸とかを教えてもらっています。娘はものをつくるのが好きなので、毎回すごく楽しみにしています。

 

娘の特性として、「何かに集中していると、終わり時間が来てもやめられない」「何か興味を強く惹かれるものがあると、欲求を抑えられない」ということがあります。

 

つまり、学校の授業でも友達と遊ぶことでも、読書でも漫画でも、すべてにおいて「終わりにさせる、帰らせる、次のことに取りかからせる」のにとてもてこずるのです。

この工芸教室でも、やはり毎回言い聞かせていても帰り際に「あとこれだけ」とかぐずぐずと引き伸ばして、結局すごく帰るのが遅くなってしまいます。私はこの彼女の特性にこれまでずっと苦労してきたので、この点に関して沸点がとても低くなっていて、少しでも言うことを聞かなかったり、引き伸ばすそぶりが見えると、瞬間湯沸かし器になって帰宅後はヒステリーです。正直、ここに通わせるのも気持ち的にしんどくなっていました。

 

先週は、みんなは次の作品に移っているのに娘だけその前の回でやることが終わらず、さらに次の週まで持ち越しになると次のテーマにめり込むけど、どうしようか、という話になりました。これまでも帰り際が延び延びになることが多く、みんなの足並みを乱して迷惑をかけているのでは、と私が気に病んでしまい、改めて翌日お店へ行って、先生である友人と話をしてきました。

 

私は、もちろん娘が創作を楽しめるように教室へ行かせたわけなのですが、帰れなかったり指示に従えずに我を通したりすることが度を越すようなら、ほかの生徒さんにもお店にも迷惑だし、娘本人にとっても学校や家庭で「時間を守る」ことの練習をさせたいのにここでだけ容認されてしまうのは良くないのではないか、と思っていました。

そこで、はじめは友人に「時間に終わらなければ持ち帰ってあとは家でさせる。でも、基本は時間内で終わらせるべきで、終わらなくて家でも材料が用意できないものはそこまでだよ、と教えようと思う。」と言うつもりでいました。

 

でも、まずは娘をいつも見てくれている友人の意見を聞いてみようと思い、お店を訪ねたわけなのですが、結論から言って、友人は私の杞憂や硬い思い込みを吹っ飛ばしてくれました。

 

教室での娘の行動を、友人に聞いたとおり描写してみると。

 

前回子どもたちが作っていたのは「木製のペン立て」で、糸鋸で好きな絵を切り抜いて彩色して組み立てるのですが、娘は途中で作業を放り出して、みんなが糸鋸を使っているところを回っては飛び散るおがくずを延々集めていました。それでしばらく見ていたら、その集めたおがくずとボンドを絵の具に混ぜて、そのおがくずの混じった絵の具でマイペースに色を塗り出しました。というのは、だいぶ前に、「すさ」というものを塗料に混ぜてしっくい風のテクスチャーを作るやり方があるよ、という話を友人が子どもたちにしたことがあるそうで、娘はそれを思い出して、おがくずを使ってやってみようと思ったらしいのです。それで、みんなが彩色を終わって組み立てに入っていても、1人納得のいくまでその「自家製すさ入り絵の具」を塗っていました。

 

そして、そのペン立ては家の形をしているのですが、そこから急にドールハウスのイメージが浮かんで頭を占拠したらしく、お店のレジ裏にあったビーズやパーツや木の実や小石が入った缶を取り出して中身をやおら選り分けはじめ、延々それに没頭していました。その間、友人は横目で見ながら、放っておきました。その選り分け作業は別に何につながるわけでもなく、ただ娘の脳内で、ペン立ての家に登場人物なりアイテムなりを配置して遊んでいたようです。

 

というわけで、終わりの時間にはもちろん、全然完成には程遠い状態だったのです。それで、友人がただそれを事実として報告してくれたのを、私が「1人終わらなくてペースを乱して迷惑をかけている」と早合点してしまったのでした。

 

友人が話してくれたのは、こういうことでした。

お店では何も迷惑ではないし、娘が大変だと思ったことも一度もない。でも私が、家や学校で練習していることと揃えて、あくまで「時間内に終わらせる」ことを優先にしたいのなら、他の子に1回声かけするところを5回声かけすればいいだけで、そうしたら彼女はできるよ、それが希望ならそうするよ、と。

ただ、教室の教師としては、子どもが寄り道したり飽きたり抵抗したりしながら納得の行くまでやることを後押ししたい、それは学校の図工の時間でできないことだから、と。

 

本当に、目を覚まさせてもらいました。

 

私がなんでここの教室に娘を行かせたいと思ったのか、その最初の思いを全部忘れていました。さんざん学校で「授業の始まりに戻ってこれない、終わり時間になってもやっていることをやめられない」と注意されて、家でも「終わりと言ったら終わり!」と詰められている娘。私は、これから学校でも社会でも時間管理ができなければやっていけない、とかなり過剰に心配をしています。自分自身もともと時間に関しては、ちょっと強迫的なところがあります。

 

でも、私のこの強迫観念も、学校の要求も、たまたま現代日本のこの社会だから過剰になっているものだと思うのです。確かにここで生きていくのだからそのルールに合わせないとしんどい、ということはありますが、だからといって、時間管理ができないのはルールを守れない「できない子」、という教育になってしまって良いのか。

 

時間だけでなく、「効率」についてもこれは言えます。2時間の中で、作るものを決めたら時間配分をして終わり時間にはちゃんと完成できるように、先生の言うとおり工程を進めて無駄なことはしない。これが結局、私が要求していたことです。ものづくりをするために行っている場所なのに!

 

友人は言ってくれました。

「この子はねえ、すごいんだよ、何がって妄想力が。作品の出来がいいとか、ちょっと芸術的にすごいもの持ってる、とか、そういうのはあるかないか知らないし、別にどうでもいい。でも、糸鋸やってね、っていう時間におがくずをひたすら集めてるとか、ドールハウスの住人に良さそう!ってガラクタをひたすら選り分けてるとか、もうね、それが一番大事なんだよ。」と。

 

私はつい、効率とか意義とかを優先で考えてしまいます。意味のないことに労力を割きたくない(なけなしの体力から無駄なことに割くだけのエネルギーがない)、というのが私の性質です。だから、たとえば「発達に凸凹があるから、みんなと同じに底上げするんじゃなく、好きなことや向いてることを伸ばしてやりたい」と考えたときに、すぐに「じゃあ、創作系でもなんでも、やるならちゃんとやった方がいい」みたいになっちゃうのです。

 

先日の教室での娘の様子をもし見ていたら、私は間違いなく「えっと糸鋸やる時間だよ。おがくず集めてないで早くしないと終わらないよ」と、言っちゃってたと思うのです。きっと学校でもそう言われるでしょう。

 

でも友人の教室では、それは言われない。見てるし言えるけど、言わない。その、なんにもしてない無駄に見える時間に、娘のあたまの中で、「ちゃんと作品を仕上げる」ことよりだいじなことがたくさん起こっていると、わかってくれているから。

 

そういう人や場所は、決して多くないと思います。友人は、本人自身も社会適合が決して得意ではないいわゆるアーティスト気質の人だから、というのも大きいかもしれません。友人には私がキャッチできない大事なことが、見えているのです。そういう大人が、娘の世界にいてくれることは、本当にありがたいことです。

 

私は、自分自身はこんなに「社会で一般的に望ましいとされること」にがんじがらめにされているけれど、決してこれが自分で心地よいわけでも、良いと思っているわけでもありません。むしろ本当はもっと自由にやりたいし社会から押し付けられる常識やルールへの抵抗も大きいのに、自分の基準に自信がないので、ひとえにその不安から、社会から求められる「ちゃんとしている」に、過剰に縛られてしまっているのです。

 

放っておけば私は、ついそこに娘もはめ込もうとして、娘も、自分自身も苦しめてしまうのです。

でも、本当は娘を同じ檻に入れたくはない。同じ性質があるのでやっぱり結果的にはそうなってしまうのかもしれないけど、それでも、「世間のルールに多少合わせられないからといって、萎縮する必要はない。このシステムの中ではちょっと苦労すると思うけど、あなたにはその型に入りきらない、すてきなところがたくさんあって、それこそが宝なんだ」ということを、伝えたい。

 

唯一救いと思えることは、私がこの自己矛盾に気づいていて、そこから娘を解放したいと思っていることを、自分で認識してる、ということです。

娘にはなるべくたくさんの時間を、上で書いた工芸教室のような場所で、過ごしてほしい。

自分のもとでキチキチと追い込まれるより、私に見えないものを見て評価してくれたり、放っておいてくれたりする人や場所に、どんどん出会ってほしい。

向き合えばガリガリと傷つけあう私たちですが、外で自分らしさをそのまま表して、自然に受け入れられている娘を見るときは、何とも言えず感慨深いです。

 

そしてそういう人や場所を感じ取って娘を送り込む、という嗅覚と瞬発力だけは、私には何とかあるようなので、絶望はしていません。