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なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【目の前の風景を一枚の静止画として眺めること】

秋分も過ぎ、ひぐらしが鳴くようになって、いわし雲なんか出て、なんだか切ない夏の終わりの入口。

 

季節の変わり目にやたらとセンチになるのは、感覚過敏が多分に影響してるのでしょうか。気圧や風が変わったり。

 

というわけで今日はちょっとポエム入っちゃうかもしれません。スミマセン。

 

私は、おそらく生きている実感がふつうよりちょっとだけ薄いです。実感、というと痛みとかの感覚が薄いという意味に読めちゃうかな。もう少し説明すると、「なんのために」がわかりにくいです。特性上、子どもの頃からずっとそうなのだと思うのですが、いろんなことの「意味」や「意義」がわからないと感じることが多くて、なんでこれが必要なのかなあ、なんでこれやるのかなあ、ということの連続なのです。で、そういうのの行きつくところが、「なんで生きてるのかなあ」なわけです。

 

「意味がわかんない」というのは、つまり自分の中からいろんな動機を自然発生させることが難しいということです。

 

遊園地に行ったら楽しい、海に泳ぎに行っても楽しい、スポーツで勝ったら嬉しい、集まって何かを一緒に作り上げるのはやりがいがある、そういう、「ふつうやったら楽しかったり嬉しかったり感動したりするでしょ」ということを、自動的にそう思えないので、いつもどこか、半分ぼんやりしているところがあります。

あと、「これは楽しいはず、楽しむところ」という強迫観念に削られて、疲れの方が大きくなってしまいます。

 

もちろん、自分なりの琴線はあります。何がスイッチを押すのかわかりませんが、これはいいなと思ったものには胸をえぐられるくらい感動したりします。そういうときには、その「感動の源」は自他境界線の境をあっさり越えて襲ってくるので、逆に感情が揺さぶられすぎて辛い、通常運転に戻るまでにえらく時間がかかる、という面倒な体質です。

 

さて。半分ぼんやりして、虚無の靄(もや)みたいなものを抱えて生きている私にとって、「映像の印象」は、生きている実感みたいなものを一番感じさせてくれるものです。「刻み付けられる」という感じです。

夏の入道雲とか、星空とか、子どもたちの遊んでいるふとした風景とか、そうした一瞬の映像が、すごい衝撃で刺さることがあります。おそらく視覚優位の認知特性があるのでしょう。

 

上の娘を産んだときに、「虚無…」とか「なんかいつもぼんやりしてる」とか言ってられなくて、発達特性どうしの獣のようなぶつかり合いで精神が壊れるかと思うところまで行って、ただでさえ生きる意味なんてわからないのにとにかく生き続ける、しかも赤子も生かし続ける、ということが目下最大の目標になるという意味不明の人生のフェイズにぶちあたり、何が何だかな状態になって、スピやら仏教やらナチュラル信仰やらいろんなものに救いを求めた時期がありました。迷走したなあ…。

 

そんな中で、ある自己啓発系を突き進んでいる友人に、荒れ狂う感情の嵐から抜け出すテクニック的なものを教わったことがあります。教わったことは、リアルタイムでは実際かなり役立ちました。大半はもう忘れてしまいましたが、今でも意識的に使うとっておきの方法がひとつだけあります。

 

それは、「目の前の風景を一枚の静止画として眺めること」。単なる流れていく風景ではなく、一秒後に世界が消えてなくなるとしたら最後に残る記憶となる風景として。宇宙の気の遠くなる時間の流れの中で、二度とこの世界に再現されない、出会えない、一期一会の風景として。

 

これをするとね、なんかなあ、生きてんのって…しんどいなあ、よくわかんないなあ、というときに、とてもいいんですよ。

意味とか、よくわからなくてもよくて。今見ているものを静止画として、写真に撮るみたいに刻み付ける。その一瞬を、ただ味わう。ちょっとだけ意識的にやると、心の準備をして開いている分、受け取れる実感がとても強くなります。あーきれい。尊い。この瞬間をただ流してしまわず、刻み付けてよかった。と思えます。

それの連続体が生きているということで、いいかなあ、と思うのです。