なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【寂しさ、ってなかなかややこしいです】

ずっとブログをほったらかしにしていて、今見たら最後にアップしたのは4か月前でした!

 

さて。今日は、なんと、「寂しさ」について書こうと思います。

 

発達障害ブログで「寂しさ」、着地点はだいじょうぶかな…。まあ、「人生半ばで発達障害に気づいて以来、新しく見える世界を、観察していく」という主旨のブログなので、だいじょうぶでしょう。もうハードル上げると一生書かなそうなので、さくっと見切り発車で。(すみません、かなり長くなりそうです。)

 

何度かここでも書いていますが、全体的に感情面の成長がとても遅かった私は、思春期~青年期になってもずっと、「うすい半透明の繭に入っているような感覚」をどこかで持っていました。ちなみによく言われる「傷つく」ということの中身も、ずっとよくわかりませんでした。

今日は、そうした「全体的に感情面でぼんやりしていた」私の、「寂しさ」について考察してみようと思っています。

 

まず、私は長い間、「寂しい」という感情がよくわかりませんでした。どこの家にもそれなりにいろいろ抱えているものはある、ということは当然のこととして脇に置いておくと、私が育った家庭環境はたぶん割と恵まれていた方だと思うので、成育歴からくるトラウマ的な寂しさみたいなものはもともとなかったです。

普通に、一見人並みに友達づきあいをしたり、大学生になってからは男の人とつき合ったりしたけれど、その中で、テレビや本や漫画や友達同士の話の中でよく見聞きした「寂しさ」にまつわることが、ピンと来ませんでした。

 

たとえば、

「クリスマスに彼氏がいなくて1人は寂しい」

「○○ちゃんと○○ちゃんが私抜きですごく仲良くなっていて寂しい」

みたいなことが、「???」だった。。

あ、たぶん今でも基本的な感覚は変わってないんですが。

 

世にいう恋愛経験もいくつかしたけれど、それも、「恋愛」と呼べるのかどうか…相手を魅力的と思うかどうかのポイントは「話をしていて面白い」なので、いわゆる「ロマンチック」みたいなのは苦手です。いつも一緒にいたい、とか、やきもちを焼く、とかもほぼなかったです。それを悩んでいたというようなことでもなくて、「私は淡泊なんだな、冷たいのかな」という感じでした。

 

さて、そんな自己認識でずっと来たのですが、ケッコン、出産とそれに続く怒涛の育児体験、そして、事件とも呼ぶべき自分自身の大がかりな再発見、を通ってきて、ここにきて何やら今になって「寂しさ」という感情が立ち上がってきている、のです!

 

ふむふむこれが有名な寂しさというやつか、なるほどこれは想像以上に結構なやっかいなシロモノですね…コマッタね。というところです。

 

でもよく考えてみると、この寂しさの感じは、ごく最近唐突に湧き上がってきたものではありません。じっとここ最近の過去を観察してみると、たぶんその芽は結婚生活が始まった後くらいに確認できて、その後娘が生まれてから着々と育ってきていました。

 

この「寂しさ」というやつ、ちょっと一筋縄ではいかんな、早めに対処しておかないと後でこじらせそう、と私の直感が判断したので、気づいた今のタイミングで一度その正体をあぶり出す試み、が、この記事です。

 

敵はざっくりと一つの言葉で言い表すにはあまりにたくさんの要素から成り立っているお化けっぽいので、ひとまず今日は切り口として、「こいつがどこから来てるのか」を考えます。

 

スターウォーズじゃないけれど、まず派手なところ、最初に思いつくところから書いて、エピソード1に繋げてみようかな、っと。

 

ツイッター依存と禁断症状

 

ええと、まずここ一年ほどの私のツイ廃具合は、相当ひどいものがあります。完全に、本物の、依存の域です。先日このあたりのことを連続ツイートしたので、そこからちょっと引用。

 

「自己肯定感が少しずつ育つために、私にとってこのツイッターの場が、大事な砦になりました。そうしてここが居心地よく、学びもあって、宝探しもできる最高の遊び場であるとわかると、当然の結果としてこの魔法の国に入り浸るようになりました。」

 

けれども、持ち前の衝動性が暴走するままにのめり込み、あいまいな境界線をさらに開け放ってどんどん自我が膨張するのに任せていくうちに、

「ただ、依存しきって離れられないのは、たぶん自分が思っているほど、幸せな状態ではない。麻薬に執着するのはきっと本当は別のつらさになっている。」

と感じるようになりました。

 

楽しい。刺激的。出会いも、共感してもらえる快感も、知識欲が満たされる楽しさも。これまでにないほど濃く、甘い蜜です。おそらく、ツイッターを知る以前にはなかった、「わかってもらえる心地よさ」が、一番の中毒の源だと思います。でもなぜか、楽しいと、それに比例して寂しさも増幅していく気がする。思うように返事が来なかったり、話したいときにタイムラインに誰もいないと、「寂しいな」と思うようになりました。

こんなことは、これまであまり感じたことがなかった…。

 

この、ツイッター依存から、少し考えを進めて。

 

②「甘えたかった自分」が出てきた

 

約1年半ほど前から、娘のことをきっかけにすごい勢いで自分の発達障害について掘り進めて来ました。私には特に頼りにできる支援の窓口があったわけではないので、本で情報収集はしましたが、何よりツイッターでの仲間たちの支えがずっと私の後押しをしてくれました。

長い間、意志が弱くて文句たれでダメ人間なんだとずっと自分自身を責めてきたけれど、ここでたくさん助言をもらったり、慰められたり、勇気をもらったりするうちに、「実はけっこう私、これまでがんばってきたんじゃないか?」と思えるようになってきました。そして、ここがポイントだと思うのですが、許され、受け入れられる場所があって気が緩んだことで、その、自分を肯定したい欲望がより鮮明に浮かび上がってきたというか。

 自分で自分を認めてあげたい。でも、それってそんなに簡単なことじゃない。やっぱり自分ではない誰かに、要するに「いい子いい子」してほしかった(私がやっと娘に少し、そういう風にできたみたいに)。

ちいさい自分が、泣いていて、「今までがまんしてきた。誰もねぎらってくれなかった。そろそろ誰か甘えさせて、慰めて」と言っている。

 

これまで淡泊、冷静キャラで来たのは、半分は感情面の発達の遅れかもしれないけれど、あとの半分は、そういう心細さに押しつぶされないよう何とか自分を保っているための、鎧だったのかもしれません。

 

ふむ、ちょっと整理できてきました。

 

①と②が承認欲求の話であるとすれば、つぎは自分の中にもとからある、「私は何者?」という不安にまつわる話になるのだと思います。

 

③もとからある虚無感、「わたしは何者?」という不安

 

発達特性持ち(我知らず)の子どもが幼少期~思春期~青年期を生き抜き、途中二次障害に直面して一応乗り越え、結婚し、子を産み、これまた発達特性持ちのとびきり手を焼く子を一応生かして小学生まで育て…という怒涛のサバイバル半生は、振り返ればジェットコースターそのもので、虚無感はベースにあれど、そこに浸っているヒマと余裕はありませんでした。で、やっとこさ人生も半ばというところでほんの少し、自分のことがわかり、扱い方のわからない暴れ馬のような感情の奴隷になっていたところからふっと抜けて、すこし見通しのきく原っぱみたいなところに出た、というのが今の状況です。

そしたらそこにあったのは、もともとあった虚無でした。

虚無、といっても、じつはそれほどネガティブな意味合いで書いてるわけではないです。

 

先日ツイッターで引用紹介したのですが、生物学者の福岡伸一さんが、学者とは何者かについて話したインタビュー記事があります。(https://twitter.com/marumushi40/status/69510524012777881

「名付けていく行為に熱中するのは、『世界の成り立ち』を知りたいから。この宇宙はどうなっていて、自分はどんな存在で、どこに向かっているのか。(中略)モノに名前を付けるという行為は、真っ白な地図に地名を記し、最終的に自分の立ち位置を知るためにやっているんです」

…「世界のマッピング」の話です。

 

子どもの頃から、私はずっとどこかで、立ち位置がわからない不安を抱えていました。世界の中で自分というものの座標を確認するために、いつも必死で手がかりを探していました。特性から来るものだと思いますが、どうも周りのみんなのようには、内側から自動的にいろんなものが湧いてこない。「自明のもの」がない。

世界との関わりでは、あくまで相対的なやり方で調べないと、「自分」が何者でどこにいるのかわからない。

 

そんなふうにずっと不安の中で生きてきて、

発達障害なんだそうだったのか

→しばらく自己分析にハマる(熱中できること)

→何となく一段落感(これまでも、「ハマりごと」サイクルは大体1~2年スパン)

→気づいたらまたポッカリ感

 

な、今です。

 

人に認められたい、わかってほしい、という寂しさとはまた少し違う、

心がからっぽであることを埋めてくれる何かへの飢餓感、とでもいうような寂しさです。根っこは不安です。

 

「人間の脳は苦を与えられるよりも、刺激がないことが一番辛い」というようなことを僧侶の小池龍之介さんが言っていましたが、いつか小池さんの座禅教室に参加したとき、この刺激のない、からっぽに耐えることのあまりの苦しさに絶句したものでした。

 

そもそも、一切皆空なのです。(あっ話が大きくなってきた)

私は特性から来る必然として結構そのことに自覚的というか、ひりひりとその、厳しく且つシンプルな真実を横目に見ながら生きてきた気がします。

 

寂しくて当たり前なこの世界。でも、なんだかこのところはいろいろな状況が重なって、たぶん生まれて初めて、はっきりと、どかーん!と、「寂しさ」と正面から向き合ってしまったのでした。

 

ちょっと、観念的な方向に膨らんでいきそうなので、このあたりで終わります。

でも、言葉にすることで、今自分が味わっている「寂しさ」の輪郭が見えてきたようで、少し落ち着きました。