【発達凸凹の私が予防線を張る理由】
これから書こうと思っているのは、「私がどうしていつも、自分ができそうなことを抑えて見積もって、常に出し惜しみしたり予防線を張ったりするか」ということについてです。
私は、元気でいつも体調がいい、という状態は子供のころからありません。いつも疲れているか、頭が痛いか、とにかくどこか不具合があるのです。
何をしていても、片頭痛発作で途中でいつリタイアになるかわからないし、運よく頭痛が出なくても、どこかへ出かけたり誰かと会ったりしたら、もう確実にその後は疲れてしまいます。たとえそれが近所のスーパーへ行くだけであっても、帰ってきたらとりあえず一回倒れるのです。
たとえば今は週三で一日五時間ほど仕事をしていますが、これで限界ぎりぎりです。昔ふつうにフルタイムで働いていた時代は、途中でちょこちょこトイレへ行って10分寝るとかしてました。通勤はほぼ白目向いてました。
それから中高のときは、朝から夕方まで続く授業の間、姿勢を保って座っていることもきつかったし、第一眠くて三分の一くらいはどうしても寝てしまうので、大学受験を諦めかけたときもありました。
今朝も、何日も掃除機をかけていなかったので、今日こそは、と力を振り絞って朝掃除機をかけたのですが、疲れているときはこれがかなりの負担。背中はパンパンで痛いし、掃除機重いし。途中で何度もへたり込んで休憩しては、なんとかやり終えました。それを出勤前に横で見ていた夫が、「辛いなら今しなくてもまた今度にしたら?」とさらっと言いました。
それが、ダメなのです。
多分夫にしたら、掃除機が重いとか辛いとか、まったく想像不可能なことです。だから、今は体調悪くて辛いなら、ちょっとやるタイミングを延ばせばいいだけでは?と思うのでしょう。
でも、それは「掃除機は普通に息をするようにやれるもの」かつ、「具合が悪ければ、休んでいればじき元気になる。元気なときにいろいろやればいい」と当たり前に考えているからです。
私にとって、「体が辛くなくて、日常のことが普通にやれる時間」というのは、とても貴重な時間です。やれるときにやっておかないと、仕事も、洗濯も、洗い物も、掃除も、ご飯も、明日の支度も、すぐに「借り」となって積もっていきます。それが、一番のダメージになるのです。
頭が痛い~、といってちょっと休んでいたら、その間にたまった負債を、未来の自分が負わないといけなくて、その自分が「いろいろやれるくらい調子がいい時間」がどれだけあるかは、いつも甚だあやしいのです。
そういう私なので、予定を入れるときはすごく慎重になります。まず日曜日には予定を極力入れたくないです。土曜日にどこかへ出かけるなら、日曜日はその回復日&倒れたときのバッファ日として確保です。同様に、平日も予定はなるべく連日にならないようにするし、一日のうち二件あったらすでにかなりのプレッシャーです。
それから家族で出かけても、夜に向かって夕食やら明日の支度やらが押していくと気が気でないので、なるべく早く巻きで帰りたがります。
仕事に関しても、同じ。なるべく予防線を張って、臨機応変系とか、骨子がしっかりしてなくてテキトーに投げられる系とかは、難しい顔をして極力避けます。
世の中では、基本的には活発でノリが良くて、好奇心にまかせていろいろチャレンジする人の方が人気者だし、楽しい、ということになっていると思います。いやいや、そんなイケイケ・ポジティブ過ぎるのも疲れるよ、ちょっとダウナーなのもいいんじゃない?という声も聞こえそうですが、私のノリの悪さ&水を差す感じ(帰ろう、とか言って)はかなり極端なので、それはやはり家族で出かけたりするときには非難の空気をムンムンに感じるわけです。
四年前、こんなことがありました。
私は2人の子ども両方とも、出産当日までの壮絶なつわりに始まり重い出産、弱ってぼろ雑巾のような産後と、とにかく産前産後の落ち具合が尋常でなかったのですが、それは置いといて。 一人目で地獄を見たので産後にサポートなしでは死ぬ、でも弟のところにもちょうど同時期に赤ちゃんが産まれて私の母は売約済み、ということで
二人目の産後は関西から夫の母に一週間ほど来てもらったのでした。
義母は体力があり、散歩もデパートめぐりでも何時間でも行けるし、歩いて30分くらいなら「すぐそこ」と言っちゃうような人です(つらい)。
うちで二人きり(赤子をのぞいて)でいろいろ話しているとき、ふと私の頭痛の話題になり、「頭が痛いとどこにも出かけられないし、痛くない時も次の日倒れたらと思うとなかなか外出に気乗りしないんです」と言ったら、
義母「へえー、でも私は頭痛くても面白そうだったら出かけていくなあ」
私「うーん行けたらいいですねえ。でも痛くなっちゃうとかなりなので、ちょっと動けないんですよね…」
義母「ええ~でも、それでも面白い方が私は勝つなあ。だってそれで諦めたらつまらないじゃない?」
私「…(泣きそう)」
という流れになり。
まあ、頭痛とか慢性疲労のない人にわかってほしいと期待するのが所詮間違いなのであって、適当に流せばよかったんですが。産後の情緒不安定もあり、このときはなぜか向こうもやけにむきになって、ぶつかってしまったんです。そして、この些細に見えるだろう会話が、いまだにトラウマになってしまいました。
昔から、ちょこちょこ、こういうことは言われてきました。友達にも、「いつも具合が悪いとか言うけど、病気に逃げてない?」とか、「意志が弱い」とか。
それはもう、私自身が一番思っています。元気でノリがいい人になりたい。ちょっと無理してでも頑張ったり、新しいことにどんどん手をのばしたり、迷いなく誘いに乗ったり、後の心配なんかしないで楽しい時間に身を任せたり。
だけど、それがきかない体とメンタルなんだと、もうずいぶん早い段階から身に染みてわかっているのです。無理をしたら、後で取り返すのが何倍も何倍も大変なのです。
それでも、これまでは自分がここまで心身ともに脆弱であまりにも無理がきかないのがどうしてだかさっぱりわからなくて、やっぱりどこかで「これは私のやる気の問題なんだ。ノリが悪いのも怖がってばかりいるのも後ろ向きな性格のせいなんだ」と自分を責めていました。
そして、最近やっと自分に発達凸凹があるという事実に行き当たり、なんとなく「そういうことだったのかあ~」というのが、見えてきたのです。
やはりどう考えても、このレベルで体がポンコツというのは尋常でない。頭痛については以前こちらの記事に書きましたが↓
おそらく、この疲れと、売るほどある不定愁訴たちはほぼ、発達障害に由来するのではないかと思っています。
主な要因としては、
(1)感覚過敏による恒常的な疲弊
(2)社会的行動原理がオートマチックに発動しないので、常に過緊張&過集中の状態で、周囲の状況を探って読みながら全力でマニュアル運転している
(3)感覚統合が鈍く運動がずっと苦手で、普通に基礎的な筋力体力がない=HPも少ない
(4)怒りや不安などの感情の処理がうまくできず、ストレス反応などとして体にダメージを与えている
あたりだと考えています。
本当、体がどこも凝っていなくて軽くて、元気いっぱい!っていうの経験してみたいです。そんな人になったら間違いなく性格も全く変わるでしょうね。
こんなわけのわからんポンコツで、もう生きてんのtsu・ra・iんですけど~!と思ったことも数えきれないですが、まあでも私の体はこれなので、仕方ないです。油差し差し、死ぬまで乗っていくです。そして、自己嫌悪もするけれど、理由がなんとなくわかった今、予防線を張るのも、ノリが悪いのも、致し方ない、と諦めもだいぶつきました。
実は娘が幼児の時からすでにこんな感じです。やっぱり出方も似ちゃうんですね。
でも、自分もこうだから、娘の、たぶん普通の人には理解不能な細かいぐずりや訴えも、わかります。あまりにすごくてさすがに「うがーーーっ!!うるせえ!」ってなることも多々ありますが、でもわかってやることはできるのです。
そんな人間が周りに一人もいないよりは、娘にとっては救いになるかもしれません。
いつも辛い辛いと泣き言を言っている人は、周りからしても、鬱陶しいでしょう。でも、もし私と同じように発達障害もしくはボーダーの可能性があって、慢性的な体調不良を抱えている人を身近に知っていたら、その人は外に漏れ出ている泣き言の十倍、じっと一人で我慢していると、想像してみてほしいのです。
泣き言を言うのは本人が一番苦しいものです。表現できているのはほんの氷山の一角です。その声を、少しでも拾ってもらえて「そうなんだ」と受け止めてもらえるだけで、すごい救いになります。目に見えない不調なので、多くの人には理解不能でしょう。でもこんな人が周りにもいるかもしれない、あの人も、うちの子も、そうかもしれない、とチラリと考えてみてもらえたら嬉しいです。