【はじまり 〜娘と自分が発達障害かもしれないと気づくまで〜】
私は40歳になるまで、発達障害という言葉は知らずに、というか耳に入っても何の意識もせずに生きてきた。
2007年に第1子として娘が生まれてから、育児の日々は想像を絶するような地獄だった。子育てがここまで壮絶なものだとは。今も思い出すと情緒不安定になるくらいの、あの苦しい日々のことについては、いずれ改めて書くかもしれない。書かないかもしれない。
とにかくその、苦しい育児の毎日をただただ1日ずつ乗り切って、もがきながら必死でやってきて、なんとか昨年、娘は小学生になった。 ずっと「ここまで育てるのにしんどい子供はちょっと周りにもいない」と感じ続けてきたけれど、 それを発達の問題と結びつけて考えることはなかった。
そうして娘が1年生になって学校生活を始めると、ぽつぽつと、気づきの種、のようなものを拾うようになって行ったのだと思う。そういう種が潜在意識の中にストックされていって、あるとき 何かのきっかけで、ある種の情報が「虫の知らせ」みたいな感じで心に引っかかりを残すようになり、その後はあっという間に点と点が繋がって、線になり、面になり、立体のブロックになって寄り集まり、ひとつのはっきりした形となって現れてきた。
それが、発達障害ということだった。
「この子は、我が強いとか、難しい性格だとかいうことだけでは説明のつかない何かがある。」と最初に意識し出したきっかけは、何だっただろう。ひとつひとつは別に特別なことではなかった。娘はそれまでもそうだったし、獣が咆哮し合うような私と娘の毎日も、ほんの少しずつではあるけれど娘の成長とともにまともになっている気がしていた。 ただ、小学校という新しい社会とルールに、おそらく「ふつうの」子は自然に馴染んで適応して行くらしいのに、娘にはそれがなかなか難しいようだった。
朝全く起きられない。
◯◯をしなさい、と何十回も言わないとできないし、恐ろしく時間がかかる。
◯◯をやめなさい、と何十回も言ってもやめられない。
朝の支度が出来ず毎日私がヒステリーを起こす。
学童や担任の先生との面談で「時間を守ることにちょっと難あり」的なコメントをいただく。
というようなこと。
その辺の全てを合わせて考えたときに、昔からそうではあったけれど、さすがにもう幼稚園生ではなくて小学生。これはちょっとやっぱりみんなと何かが違うのかな、と思い始めた。
そこに思い当たってからは、後は早かった。ネットや本、TV、どこからともなく私のアンテナに引っかかるワードやトピックがどんどん入ってくる。数珠つなぎにどんどん情報を収集する、その繰り返し。最初にADHDと言うワードに反応したのはいつだったかは覚えていない。でもその中でひとつ鮮明に残っているのは、Facebookのシェアか何かで流れてきた、エジソンクラブによる、ADHD理解啓蒙?用の短いアニメ映像だった。
そこに写っていた主人公の男の子は、娘そのものだった。
自然に涙が出ていた。
ADHD、自閉症スペクトラム、発達障害、といったタイトルの本をおそらく10冊ほど立て続けに読んだと思う。それからツイッターで発信している当事者のアカウントもフォローした。
おそらくその辺のことが一気に起こったのは、昨年の夏休みあたり。さっそくその後、市の教育相談室に連絡をして、娘を連れて行き、WISC-Ⅳを受けた。結果は、医療機関ではないのでもちろんカウンセラーから診断名は出ないが、はっきりとした発達の凸凹。言語理解と動作速度の間にかなりの開きがある。
とりあえずはっきりと発達に凹凸があることが分かった。でも今のところ、学校でどうしようもないほど先生が手を焼いているわけでも、当人が困っているわけでもない。多少注意散漫だったり時間を守れなかったりして集団行動を乱す事はあっても、まだ1年生なので別に普通にそれくらいの子供はいっぱいいる。
やはり一番問題なのは、娘が生まれてこの方ずっと続いている、母子関係の難しさ。そしてその結果として彼女の自己肯定感がおそらく全く形成されていないということ。
もう手遅れかもしれない、このままではホンモノの虐待になる、もともとキャパの小さい私にこの子は育てられない、優しくできず毎日怒り狂う私はこの子の人格を取り返しのつかないほど破壊してしまうのではないか、こんなヒステリックで残酷で娘を傷つける母親とは離れて暮らした方が彼女のためにいいのではないか、後は夫に託してどこかに蒸発してしまいたい…そんなふうに、何年も悩み苦しみ続けていた。 でも、もっと手遅れになる前に、本当に取り返しがつかないくらい関係が壊れてしまう前に、何とか少しでも浮上したいと、助けを求めて模索する、その繰り返し。その間にも娘はどんどん自分というものを肯定できなくなって、さんざん怒られて泣き寝入りする寝入りばなに、「こんなだめな私はだいきらい」とまで言うようになっていた。
これはもう、本当に、まずい、と思った。
そして9月ごろ、あれは何のきっかけだったんだろうか、ふと私自身も娘と同じものを持っているんじゃないか、という思いに行き当たった。それまでも夫に、「2人の関係については、彼女だけの問題じゃないね。というか、あなたのほうの問題も同じくらいかそれ以上にある気がする」という意味のことを、何度か繰り返し言われてはいた。私も、自分が怒りをコントロールできないことや精神不安定になること、ストレス耐性が異常に低いこと、などはいやというほど自覚していたけれど、あくまでこれは私の弱さや性質、思考癖などが原因なんだと思っていた。 だからこれまでもずっと、娘との事で悩んだときは、自分の弱さや考え方のクセや、生き方に対する態度そのものを改めたいと、仏教やスピ系の本を読んだり、座禅に行ったり、ヨガをしたり、フラワーエッセンスを飲んでみたり、友人でカウンセラーの自己啓発系アドバイスを受けたり、いろいろしてきたのである。
しかし。もし私も娘と同じく、発達障害の人であったら?
その仮定は、まさにこれまでの人生感、世界観、自分が自分と思っていたものの像、をすべてひっくり返すような問いだった。
気合いが足りないのでもなく、
努力が足りないのでもなく、
考え方が間違っているのでもなく、
精神力が弱いのでもなく、
脳の、機能の問題⁈
だとしたら?
その問いが自分の中に立ってから、今度はぐいぐいとつき動かされるように、自分自身の半生を振り返り、記憶をたどり、その仮説に当てはまるエピソードをさらい始めた。
そこからはもう毎日、出てくる出てくる。「あっ、これは?」「こんなこともあった!」と、記憶に埋れていた過去のエピソードや、前からちょっと人と違うかも、と感じていた自分の性質の数々。
特に、苦手なこと、何故か分からないけれどどうやっても改善できないこと、自分だけのように思える脆弱さや、生きにくさ。なぜかここは譲れない、というこだわり。
これまで、ずっと、私は頑張り続けてきたんだ。娘と同じように。できないことはどうやってもできない。でもそれを何とかしたいと工夫して、やっぱりダメで諦めたりめげて自暴自棄になったりしながら、ふとむっくり起き上がってまた挑戦して、また倒れて。その繰り返しで人生半分、やってきた。
「出来なくて仕方ないのだ、だってシンプルにそういう脳だから」なんて、思いも及ばなかった。
朝起きられない、暑さ寒さが辛すぎる、音にも匂いにも過敏、スニーカーでも靴ずれする、服の縫い目と体の線が合わなければ不快極まりない、方向感覚がない、数字や数学が非常に苦手、お金の管理が極端に苦痛、短期記憶が弱い、忘れ物・なくし物が多い、段取りしないと動けない、複雑な人の心の機微がたぶん読めてない、行間も読めない、身体は常に不定愁訴のデパート(慢性疲労、慢性頭痛+偏頭痛、肩こり、腰痛、生理痛、ど近眼、運動音痴…)、ストレス耐性が異常に低い、妄想の自動走行が止まらない、集団の中で足並を揃えるのが苦手、人よりパーソナルスペースが必要、怒りや憎悪などの感情が伝わるとダメージを食らう、鮮烈なビジュアルイメージのインプットでもダメージを食らう、いっぺんに複数の情報を処理できない、マルチタスクが無理、自分のペースや予定を乱されるとパニックになる、相手が自分の思う反応をしなくてもパニックになる(身内限定)、怒りなどの感情に飲み込まれると自分で制御できない…。
ずっと、苦しくて、途方にくれていた。
だけど、「生きていくというのはこういうことだ。苦手なことや辛いことに耐えたり、克服したりして何とかやっていくものなんだ」というのが、ことあるごとに学校とか教科書とかテレビとか本とかで繰り返し刷り込まれた定説だった。
それから、
「みんな多かれ少なかれそうだよ。」
「気持ちの持ちようだよ。」
というのも、いやというほど聞いた。
だから娘にも、私は当然のようにそうやって刷り込まれた考えを押し付けていた。 「何でできないの?」
「何度言ったらわかるの?」
「何で人の話を聞こうとしないの?」
「一生このままでいいの?」
「どうして変わろうと思わないの?」
「あなたが自分で変わらなかったら誰も変えることはできないんだよ」
「人のエネルギーや時間を奪って当たり前と思わないで」
「私はあなたの奴隷でもお手伝いでもないんだよ」
「そんなふうにいつも私の感情を引っ掻き回して疲れさせて、私の1日を朝から潰さないで」
「私はあなたの後を追っかけ回して一つ一つやるまでうるさく言い続けて、そんなことで毎日が終わってく。私はそのために生きてるんじゃない」
娘は、やらなかったんでも頑張る気がなかったんでもなかった。 どうしてもできなかったんだ。 私と一緒だよ…ただできなくて、どうしてかは娘本人にもわからなかったんだ。
それが分かったとき、私と娘の関係は少し変わった。
その「合点が行った」瞬間は、一気に霧が晴れたような、別次元に移動したような、とにかくもう圧倒的な衝撃で自分の中の「私、娘、この世界」への理解が壊され、組み直されて別の形になっていく体験だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、2015年1月現在。 私も、娘も、二人とも病院での診断は受けていない。
(ちなみに私の方は、近々クリニックで診察を受ける予定。)
でも、二人ともここまでの困難を抱えていて、二人の間の関係性もやはりちょっとふつうとは考えられないくらいハードなので、これはまず間違いなく発達障害確定であろう、と思っている。
自分は発達障害かもしれない、と思い至ったあと、
世界は、以前とはまったく違った見え方をしている。
これまで疑問だったことで、合点が行くようなことがたくさんある。
周囲の人やこれまで職場で出会った人で、「なんでこんなことができないんだ」「どうしてそんな言い方をするんだろう」と思った人たちの顔が浮かび、もしかして彼らも・・・と思う。
ひきつけられる本や漫画やアニメや映画やお芝居に、発達障害かそれに類するモチーフを見る。
あるいは、そういう見方で読み解けたり、自分に引き寄せて味わえる。
発達障害ではないけれど、世の中でマイノリティであり、差別の対象になったりもする様々なカテゴリー(カテゴリー分け、ということにも複雑な思いはあるけれど、それは一旦さておき。)に属する人たちが、関心や共感の対象として浮かび上がってくる。
今現在は、そんな状況。
まだまだ発達障害について、よくわかっているわけではない。
娘や自分のことを客観的に分析しきれているわけでもない。
でも、とにかく昨年後半の半年ほどで、私にとっての世界は塗り変わった。
これからしばらくは、この眼鏡で、世の中や身近な人たちを眺めて行くことになるだろう。
そんな中で、感じたこと、思いついたことを、書きとめて行こうと思う。
年齢的には人生の後半に差し掛かろうというところで、私におこったこと。
ここから自分自身や私たち家族が、どうやって生きていけば、よりしあわせになれるのか。
自分自身の記録として、それからもしこのブログを読むきっかけがあって、何か受け取ってくれる人がいるのなら、その人たちに向けて。