なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【発達障害者はいじめに気づきにくいか】

最近、娘の相談で大学の発達臨床センターに通いはじめ、先日も長時間にわたり成育歴に関する聴取があったので、頭のなかでその関連のことが活性化していて、自分自身のいろんな記憶も表層意識の方にぷかぷかと浮かんできていたのかもしれません。

 

夜にぼんやりしていたら、ふと、空から降ってきたみたいに、ある考えがピコーン、と頭の中にやってきました。

 

あれって、もしかして…。

 

それは、事実だとすると二重の意味でけっこうショッキングな気づきでした。

 

私は中高一貫の女子校に通っていたのですが、ここでの学校生活は、まあ六年もいればなんやかやはあるものの、概ね平和で、取り立てて大きな事件もなく、どちらかと言えばぼんやり過ごしていました。

ただひとつ、とても嫌なことがあって、はっきり時期は思い出せないけれどおそらく中学の終わりくらいから、卒業まで続いていた気がします。

 

私は、ノートを綺麗に書く、ということにかなりの執着がありました。

片づけも掃除も大の苦手だけど、ノートに関してはわかりやすく、見た目も綺麗に書かないと気が済まないのです。

 

体力がないこともあり、家に帰ってノートをまとめる余裕はなかったので、学校でノートを取るときは一発勝負。ということで、ノートを綺麗に取りたい科目(特にこだわったのは生物。あと社会科全般。数学系はそもそも理解不能だし投げていた)については、先生の話の中から要不要を選り分け、あっちこっちに飛ぶ話題を必要に応じて線上に直し、大見出し・中見出し・小見出しがわかるように記号をそろえ…という具合に、授業が終わると脳みそも肩も腕もガッチガチに固まるくらい、集中して書いていました。

 

なかでも生物は、内容にも魅了されていたのでワクワクしながら授業を受けていた上、とにかく板書は絵や図が多かったので、こちらは色鉛筆をしっかり削ってスタンバイし、絵と色付けも同時にやりながらノートを取っていました。

今考えるとよくやっていたなあ…。

 

さて本題ですが。

 

こうして気合を入れて書いていたノートが、試験前になると、なくなるのです。

 

通学には電車を乗り換えて、自宅の最寄り駅まではバスも使って、1時間半近くかかる、ということもあり、また重い鞄が何よりも苦痛なので、教科書やノートは必要がないものは学校の机にそのまま置いて行っていました。

毎回ではないものの、試験前にノートがなくなって困ったことは何度となくあったのに、ノートを持って帰ろうと思わなかったのは何故なのかは、よく覚えていません。

 

当時から、「盗られたんだ」ということは、わかっていました。

が、誰にそんなことをされていたのかは、卒業まで見当もつかずじまいでした。そして、ノートを試験前に盗るのは、私のノートが綺麗にまとまっていることを知っていて、それを試験勉強に使いたいから盗っているのだ。

と、思っていました。ずっと。

 

ところがこの間ぼんやりしていたときに、本当に突然、「あれは、ノートが欲しかったのではなく、嫌がらせ(いじめ)だったのではないか」という考えが、浮かんできたのでした。

 

もしかしたら、勉強熱心な人が多い学校だったし、本当にノート目当てだったのかもしれません。でも、私を困らせるためにやっていた可能性も、小さくはない。

そのことに、高校を卒業して20年以上もたった今、思い当たったのです…。

 

うーん。私はいじめを受けていたのかもしれない。そして、そのことに気づいていなかったのかもしれない。

 

それらしきことは、実は大学生の時にもありました。入学してすぐ、勧誘されるままに全然合わないテニスサークルに入ってしまったのですが、同じ学年にちょっとかわいい、いつも輪の中心にいるような明るい子がいました。「一女(一年生女子)」は全部で10名近くいたのですが、集まるとそれなりに楽しくやっていたし、その中心にいた子も、ときどき私をからかうようなことは言うけれど、別に嫌いでもなかったし、うまくいっていないとも思っていませんでした。

 

ところが、あるときその子といつも行動とともにしていた3人組の中の一人の子が、「〇〇、あの子にちょっといじめられてるよね…。」と言ってきたのです。

 

びっくりしました。私自身は、そういう認識ではなかったので。

私の特性なのか、いい人ぶるわけではありませんが「人をいじめたい、意地悪をしたい」という心理があまり理解できないので、そこが直結しないというか、想像しづらかったのですね。

 

これは娘にも、同じ傾向があるように見えます。

 

ただ、ここでひとつ書いておきたいことは、私がその子との関わりにおいて、「何も感じていなかったかというと、そうではない」ということです。やっぱり、彼女の私に対する物言いや態度から、うっすらとではありますが、痛いな、辛いな、という感覚は受けていたと思います。

 

私はそもそも、「本人が困っているのなら」ということで口頭の診断は受けたけれど、どちらかといえばグレーゾーンですし、発達障害者としての見解ということではないのですが。タイトルにも書いた「発達障害者はいじめに気づきにくいか」に関しては、これだけサクっと聞かれたら、「確かにそういうタイプの当事者は割といるのではないか」という印象です。

 

でも、よく言われる「発達障害者は人の気持ちがわからない」という表現にはずっと違和感があり、今回のテーマについても、「人の気持ちがわからないから、いじめられていたとしても気づかない」というと、ちょっと違うなと感じています。

人と感情表現や感情の受け止め方が少し違うシステムになっている発達障害者は、「何も感じていない」のではなく、無意識にでも自分が何かしらのダメージを受けている、痛い、ということは、感じているのです。

ただ、それがどういう感覚で、さらに一般的にはどう定義されるようなものなのかを、経験に引きつけてハッキリと認識するという部分に難があるのではないか、と思います。

 

このあたりのところは、もうちょっと続けて考察していけたらな、と思っています。