なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【発達障害を理解してほしい、と思うこと】

自分の発達障害がわかって、本を読んだり当事者または家族のブログやツイートを読んだりして、だんだん発達障害についての知識は増えてきている。

同時に、そういう情報をきっかけに自分のこれまでのエピソードや疑問だったこと、ひっかかってきたことに、日々気付いたり思い出したりして、自分自身への理解も深まってきている。

 

そうして、そういう自分を掘る作業を、自分だけでやっていても確信がないので、私はいちいち夫に「そういえば、昔こういうことがあったんだけどこれってさあ」とか、「私、こういうときってこうなるよね」とか話をしてきた。自分で言語化することと、相手のフィードバックが、私のこれまでの人生の全体像?ストーリー?を整理するのを、とても助けていると思う。

 

夫について少し話そうと思う。

夫は、たいへんに自我が強くてこだわりが強くて、まず自分の正しいと思うことは曲げない。そして子どもの頃の話を聞くと、かなり多動があったっぽい。

で、最初私は自分のことを省みる前に、「娘のアスペルガーADHDはこの人由来ではなかろうか」と思っていた。今でも、その傾向はあるのかな、と思う(祖母や父親がたいへんに疑わしい)。

ただ、夫が私と絶対的に違う一点があって、それは「そういう自分が好きで、困ったり悩んだりは一切していない」ということである。自分の中に絶対的な「正しい」とか「好き」とかの基準があって、それはもうびっくりするくらいぶれない。そして、それに従って行動した結果こうむる逆風や不利益とは、戦うだけ、という姿勢である。彼の中に「めんどくさい」という文字(私の脳内の80%は「めんどくさい」でできている)はない。

つまり彼は、発達障害かどうかはわからないが、普通に人としてかなり偏屈でしんどい人である。ただ、社会的スキルはとても高い。

たとえば学校とか会社とかの組織内で「違う」と思ったことにはどうあっても屈しないけれど、自分の周りのせまい範囲の人間に対しては非常に親切だし、基本的に私欲がない。むしろ自分が損をしてもいろいろやってあげるところがあるので、周りの人からはひいき目に見てもかなり信頼されていると思う。それから、人と人との調整能力がやたら高い。人心を読むというか、心理戦や政治に長けている。ので、そういう機微やかけひきが一切分からない私は、職場やら幼稚園役員会やらでいろんなごたごたがあったときの立ち回りは、夫に相談して大体決めている。家庭内参謀である。

ものの見方は、基本的にひねくれている。間違ってもメディアの文言をそのまま信じたりはしないし、常にその裏や背景や実態を見ているらしい。

リアリストで、人や世界にあまり期待しない。

夫が発達障害の特性を持っているかどうかは、今のところ突っ込んでもあまり意味がないかな、と思っている。(そういう特性は一部あるように思うけれど)

 

私や娘の発達障害のことについて話すとき、夫はそういうわけで「定型者サイド」の人間としてものを言う。私は定型者と当事者はそもそも同じスペクトラム上にいて、分けられるものではないという考えだけれど、それでも今の私は「発達障害者としての私」についてもう少し掘って整理していく必要があるし、現段階ではいったん自分の立ち位置を「発達障害者」として、それ以外の世界との対比の中で座標を探っているような感じである。いつかこのスタンスも変わると思うけれど、今はこういう局面かな、と思っている。

 

今、夫はたぶん私の唯一の理解者である。理解、とまでは難しいかな、でも少なくとも分かろうとしてくれてはいる。そして定型者の代弁者である(と、規定する)。

 

そういう夫と日々話していて、私はひとつひとつ、「なるほどな、私の行動はこう映っていたのか」とか、「こういうところは理解されにくかったのか」とか確認して行っている。

 

そんな中で、この頃よく考えることがある。

 

発達障害者は「少数者」であって、劣っているのでも治すべきなのでもない。

・そのことが理解してもらえれば、特性上の能力を活かすこともできる。

・教育の場でも、子どもはひとりひとり違うのだから、特性に合った対応がされるよう、もっともっと教育のシステムも整備されるべきだし、発達障害についての社会的理解がもっと深まるべき。

 

と、いうような、私たち側からすれば切実な訴えや願い。

それ自体は、たぶん「正しい」し、「よりよい社会を目指している」意見だと思う。

 

だけど、じゃあ、現実問題としてどうか。

となったときに、定型者でリアリストの夫から、しかも身内なのでオブラートに包まずストレートに出てくる言葉に、うなることが多い。

意地悪をしているのでもなく、差別しているのでもなく、現実の中でより「勝ちに行く」というか、「実を取る」ために、要は自分がより幸せで生きやすくなるための身の処し方、というものを第一に考えている人から、率直に放たれる言葉。

 

夫は、娘のことを担任に話すことも今の段階では賛成していない。忘れ物や時間管理など、若干難しいことがでてきているけれど、ぎりぎりやれている今の状態では、慎重になるべきだと言う。学校の先生に、過度な期待をするべきではない、それよりは特別視させてしまう可能性とそれが今後生むかもしれないデメリットを考えたほうがいい、と。

 

それから、夫は基本「世界は自分の思い通りにならない。何かが欲しければ自分の力で勝ち取るしかない。その競争に負けた人間や、悲しいかな持って生まれたものに恵まれない人は、残念ながら諦めるしかない」という強者の論理の人なので、一般的にマイノリティに属する人やグループへの共感が薄い。

対して私はこれまで、発達障害云々にもマイノリティにも自分自身は縁がないと思っていながら、なぜか少数民族や非差別人種やセクシャルマイノリティや、といったグループに説明のつかない共感を覚えてきたし、そういう少数派の人たちが理不尽な扱いを受ける世界であるべきではない、とずっと思ってきた。

そのスタンスはどちらかといえばかなり青臭く、大学時代には先住民族の権利回復運動に関わったりもした。

夫に言わせると「超左寄り」となる。

そういう水に集まる人?のありがちなパターンの一例で、一時期は自然食やマクロビオティックにはまったり、スピ方面に関心が偏っていたり、した。そういう、一連の親和性のあるカテゴリーのすべてを、基本的に夫は嫌がった。

 

すこし話がずれたようだけど、何が言いたいかというと、

「自分をマイノリティと呼ぶ人々は、いつも体制やマジョリティを逆差別して、自分たちは正しいと声高に叫び、自分たちを理解しろと強要する。社会が自分たちに合わせて変わるべきだと主張するし、その主張は往々にして理想主義でお花畑で、糾弾したり『啓蒙』はするけれど、何かを実現させるための具体的なプランも作らないし努力もしない」

というのが、夫の意見である。

そして、脳内お花畑で理想主義者で世界や人に期待し過ぎな私は、これに当初はものすごい反発を覚えたし傷ついたけれど、今では真実だな、と思う。

 

マイノリティ側は往々にして具体的な努力をしない、というのは言い過ぎで、違うと思うが、やっぱりそう取られるには理由があって、「我々を理解しろ」という主張は、かなりうまく、工夫して発信しないと、多数派からは受け止めにくいメッセージであろうと思う。

 

それから、「べき論」ではなく事実として、多数と少数では多数の幸せ(利益)が優先されるのが、現状では世の理ということ。

小学校で初めて「多数決」の概念を知ったとき、どこかで何となく腑に落ちないモヤモヤ感を抱いたけれど、結局はより多くの人が相対的に良いと思う、ということでしか、皆が納得できる着地点を見つけられない。

 

その延長線上で、発達障害者が「自分たちの特性を理解してほしい、理解がされたならこの特性に合った対応や扱いをしてほしい」というのは、あくまで相手に自発的な「理解したい」「対応スキルを学んででもこの人と分かり合いたい」という自由意志があって初めて、成立することなのではないか(発達障害者に限らずどんなマイノリティグループでもそうだけれど、ここでは発達障害に限って話をする)。

 

たとえ婚姻関係を結んでいる相手であっても、「私にもっと興味を持ってよ、理解してよ」とお願いすることはできても強要はできないし、それを社会に求めるのはもっと難しい。

 

こういうことを書くのは、もちろん私が人一倍「わかってちゃん」だからであり、周囲の人や社会に対して求める期待度が高すぎるくらい高いからである。

だからこそ、その難しさを重く受け止めてしまうのだと思う。

 

最近、発達障害関係の本を読んだり番組を観ては、私という人間の取扱説明書として夫に勧める、ということをしていたのだけど、私の「マイブームに一時的にのめり込む」というのが出て(今、発達障害が私のマイブームなんである)、若干集中砲火ぎみになっていたと思う。

それに我ながら気付いたので、ちょっと申し訳ないという思いからこんなことを書きたくなったのかもしれない。