なんだなんだ、そうだったのか

娘が発達障害だった、と思ったら私もでした!人生半ばで気づいたよ。まったく新しく見える世界を、観察していきます。

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【価値基準に自信がない】

連休で家族がいない。1人だとものすごく怠惰な生活をしている。ダメ人間そのもの。

 

別にそれは誰に非難される筋合いもないし、他の人がそうだったら、

え?何が悪いの?別に全然いいんじゃない?と思うだけ。

 

でも私は思い描いていた「やりたいこと」や「やるべきこと」があって、それが全くできていないので、想定していた自分の達成イメージと現状のギャップのあまりの大きさに自己嫌悪で凹む。

考えれば私はいつでもそうで、こうしたい、こうありたい、こうするべき、の設定をたぶん身の程をわきまえない高さに設定してしまう。で当然そんなのできないので、そのギャップで苦しむ。

 

対して夫は、自分でやったことに基本後悔しないし、自己嫌悪は絶対しない。
毎日のように食べ過ぎて落ち込むのを繰り返す私のことは、全然理解できない。食べたいなら食べればいいし、食べたんなら気にするな。ということである。

 

同様に子供を叱りすぎても思わず手が出てしまっても、彼は自己嫌悪しない。私は死ぬほどする。

 

結局、私にとっての発達障害の困りごとというのは名前をつければいっぱいあるけれど、突き詰めればこの「なりたい自分になれていない、やれるべきと思っていることがやれない」というのがとても大きいんじゃないかな。
(あ、双璧の「家族が、世界が、自分の思い通りにならない〜!」という自他境界線問題もあるけど)

 

何が良いことで何が悪いことか。
何が正しくて何が間違っているか。
何が面白くて何が面白くないか。
何が好きで何が嫌いか。

自分がこうありたい、こうあろう、というイメージや目標を設定するには、こうした価値基準を組み合わせて使うものだと思う。で、結局、何がしたいのか、がわかる。

 

思いついて書いた上の4つ、どれも時代背景やら生まれた場所やら教育やらのいろんな条件によって全然変わってくるし、基本的には後天的に学習していくものだと思う。

それでも人間には生まれつき、こうした「現行のソフトウェアをダウンロードする」ための基盤システムみたいなものが備わっていて、最初にベースを与えられれば、まずまずそれと整合性を保って自分でその後にシステムを構築していけるようになってるんじゃないだろうか。

 

夫はアスペルガー無しのうっすらADHDボーダー、あたりと考えているんだけど、多分彼は自分の中のシステムの整合性が取れているんだと思う。だから好きと思えばやればいいし、正しくないと思ったらやらないし、やったことは自分で選択したので後悔しないし(ゴロゴロしたいと思ってゴロゴロしているんならそれは楽しい選択なので何ら自己嫌悪の種にならない)、対人関係の中でどういう対応をするかも、感覚的に湧き上がってくる正誤、善悪、気分、みたいなものを瞬時にバランスよくまとめてアウトプットするので、結果がどうあれ「自己矛盾」はないのである。

 

自己矛盾とは結局、「これでいいはず」と「こうしてみた」のつじつまが合わなくなることだと思う。で、私の場合「これでいいはず」が、自然に出てこない。

これは対人コミュニケーションにもそのまま言える。

 

私は見た目(特に第一印象)では、「社交的で対人スキルもあって理性的(→だから役員とかやれば?)」みたいなびっくりする評価を受けることもしばしばで、つくづく人は他人の内面というものはわからないのだなぁと思う。

人様からそういう評価をいただいても、自覚としては価値判断の基準が自分の中にないし、ブレブレだし、ソーシャルスキルに関する自信はすこぶる低い。この自信のなさの中身は、「どうも人とうまくやっていけない」とか「トラブルを起こしてしまう」とかではなく、「人と関わりを持っているときに常に、自分の対応がこれで良いのかに自信がない」ということ。


「これって大丈夫?」「文句言っていい?それとも悪いのはこっち?」「この場で正しい判断て?」が、わからない、自信がない。

 

だから、家族や友人のように間合いが取れて落ち着いている人間関係ならいいんだけど、仕事とか。全然わかりません。

仕事で初めての人にメールをするときとか、もう1本書くのにものすごい時間がかかる。これはお願いしていいのか、やってもらえて当然なのか、どういうニュアンスで伝えたら失礼にならないのか・・・。

 

この、初期設定で備わっていないバランス感覚を補うために、いつでもものすごい集中力で相手との関係や自分の立ち位置を察知しなければいけない。

私は子どもの頃から「私ってどういう人間?」ということをいつもモヤモヤと考えていたし、自己分析は癖みたいなもんだし、西洋占星術なんか勉強したのも、この「世界の中での自分の座標」みたいなものを明確にしたい、という渇望なんだと思う。

 

対人や社会における価値基準がわからない、ということの根っこに、私の場合はそもそも、「自分自信の欲望や価値基準がわからない」があるのだろう。

 

だから、「あるべき自己像」を作る時に、自然な自前のイメージじゃなくて、「よいとされている」外からの基準を持ってきてしまう。これは夫にしばしば指摘される。

「あなたは本当はそういうのすごく嫌いなはずのに、人の何倍も、借りてきたような一般常識や悪しき慣習に縛られるよね」と。

嫌で嫌でしょうがないのに拒絶できなかったりするのは、結局自分の価値基準に絶対的な自信がなくて、「くそくだらない」と思える慣習でも、どこかで「そういうものだというんなら、それに従わなきゃいけないんじゃないか。なぜなら私はその正誤を判断できないから」と思ってしまう。

 

自信を持って「自分はこう思う!」「これが正しい!」「これが好き!」と言いたい。若い頃は、自分はそういう軸があると思っていた。今から思い返せば、むしろそれは軸がない故に不安で不安で、外から借りてきた鎧を着ていただけだった。そのハリボテは20代の初めにど派手な音を立てて崩れ、そのあと私はすっかり虚無の海に投げ出されてしまった。

 

「正しい」の呪縛はおそろしい。

前以上に「正しさ」という圧に対して懐疑的で慎重になった私は、どうやら自分の中から湧いてくる(ように感じる)価値基準に対しても、身構えるようになってしまったようだ。

 

この悩み、長年自分のテーマだとは思ってきたけれど、やっぱり発達の問題かと思うんだなあ。これが結局、特徴としてよく言われる「社会性の欠如」ということなんだろうか。社会性って、どういう価値基準でどう行動するか、ってことだと思うから。

だとするなら、他のアスペルガーの人はどうなのかわからないけど、「社会性に欠ける」というのは私の場合、社会性がすっぽり抜けていてマイペースに生きている訳ではなくて、「みんなが自然に体得している社会性や価値基準を、ものすごい努力をして場面場面でいちいち探らないと行動できない」ということ。

きつい。

 

複数のテーマがごちゃごちゃと入り混じってしまったけれど、これも自分の整理のために書いている!今回はこのまま残しておく。

セルフイメージ、自分の欲求、自己矛盾、善悪/正誤、対人関係における価値基準、あたりのことについて、頭の隅に置いてもうちょっと考えていこう。